文化 行田歴史系譜381

■資料がかたる行田の歴史81
▽阿部忠秋の自筆書状
寛永16(1639)年から忍藩主を勤めた阿部忠秋は、三代将軍徳川家光から四代家綱にかけて32年もの間、老中として幕府の屋台骨を支えました。老中は国政を預かる職務のため、一年を通して江戸に滞在し、参勤交代を行いません。国元の藩政は忠秋の指示を得ながら家老たちが担っていたと思われます。
老中の勤務場所は江戸城の本丸御殿で、書記に当たる右筆などの役人が仕えていました。一方で、忠秋の重臣たちも私設秘書のような立場で老中の職務を支えており、忠秋は家臣に幕政に関する指示も手紙で伝えていました。その一人が平田弾右衛門重政です。
平田は忠秋の父である阿部忠吉の代から阿部家に仕え、忠秋が寛永12(1635)年に壬生藩主になった際家老になりました。その後も加増を重ね、寛文2(1662)年には2000石となりました。平田の下には、忠秋から送られた幕政・藩政に関する指示書が多数残されていました。平田は寛文6(1666)年に忠秋からの書状など121通を4巻、忠秋の養子・正能の書状28通を1巻の巻子に仕立て、忠秋の4巻を子どもの新左衛門、治部右衛門、恒屋甚兵衛、甲斐吉右衛門へ1巻ずつ、正能の1巻を新左衛門に与えました。そのうち、治部右衛門に与えられた巻子が今回紹介する資料で、忠秋の自筆書状30通が収められています。
書状の内容を概観すると、将軍からの指示を受けての大名家への下賜品の段取りや、大名家から将軍家への進物の対応、将軍生母の葬儀、大名家間の交際などさまざまですが、老中の実務に関することも多く含まれています。老中御用部屋にいる忠秋が認めた指示書が江戸藩邸にいる弾右衛門の元に届けられ、実行されていたのでしょう。忠秋の老中の職務の実態を知る上でも貴重な史料となっています。
(郷土博物館 鈴木紀三雄)