文化 (特集)狭山を愛した詩人 生誕100年 吉野弘の世界をたどる(1)

今年生誕100年を迎える、詩人の吉野弘さん。結婚披露宴でよく引用される「祝婚歌」や、国語の教科書に掲載された「I was born」「夕焼け」など、数多くの名作を遺しました。狭山市で過ごした35年間の暮らしの中での自然や人々との交流が、作品に色濃く息づいています。今月は、吉野さんの足跡をたどりながら、詩の世界を感じられるスポットなどを紹介します。

やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
「夕焼け」より一部抜粋

■詩人・吉野弘
大正15年1月山形県酒田市に生まれ、戦時中に酒田市立商業学校を卒業して帝国石油に入社しました。激務がたたり、昭和24年に肺結核を患った吉野さんは入院中に詩人・富岡啓二さんと出会います。この交流がきっかけで本格的に詩作を始め、勤務の傍ら詩の投稿をしたり、詩の会に参加したりしながら、31歳で初めての詩集を刊行しました。吉野さんの作風は、何気ない日常の中で生きる人間の弱さや優しさ、温かみを描くものが多く、狭山で創作した詩では自然に関することもよくテーマとしています。詩作の他にも、地域の講座や校歌の作詞、文芸誌の編集にも尽力し、地域に深く根ざした詩人として活躍しました。

■吉野弘の生涯
〇大正15年(1926年)0歳
1月16日、山形県酒田市で出生

〇昭和24年(1949年)23歳
肺結核になり入院・療養。入院中に詩人・富岡啓二氏と知り合い、交友を深める

〇昭和26年(1951年)25歳
2年にわたって制作した5冊の自作の詩集を『合本』という形にまとめる(吉野さんの死後、家族により発見)。

5冊の手書きの詩集をまとめた『合本』
吉野さんは帝国石油に勤務していた昭和22年から詩を書き始め、入院前の2年間で『體臭(たいしゅう)』『山巓(さんてん)』『鶏肋(けいろく)』『のすたるぢや』『道』という5冊の手書きの詩集を作りました。これらの詩集は、会社の「支払金内訳書」などの事務用書類の裏面に、ペンや鉛筆で書かれたものです。昭和26年にこれらの手描きの詩集を1つにまとめて『合本』として吉野さん自身の手で製本されました。病後、半日勤務の生活を送りながら作られた『合本』は、吉野さんの死後に家族が書斎で発見したもので、大切に保管されてきた吉野さんの若き日の情熱あふれる貴重な作品です。

〇昭和27年(1952年)26歳
詩誌『詩学』に「爪」「I was born」を投稿し、翌年の2月号で新人に推薦される。以後、同人誌『櫂(かい)』の他、各種の雑誌、新聞などに詩や書評を発表する

〇昭和29年(1954年)28歳
長女・奈々子さん誕生

〇昭和32年(1957年)31歳
初めての詩集『消息』を刊行

〇昭和37年(1962年)36歳
次女・万奈さん誕生。コピーライターに転職し昭和55年まで継続。その後は文筆を専業とする

〇昭和47年(1972年)46歳
前年に刊行した『感傷旅行』が第23回読売文学賞を受賞。東京都板橋区から狭山市北入曽に転居し自宅を構える。近所の茶畑で、井戸端園の若旦那・仲川幸成さん(前市長)と出会う

〇昭和52年(1977年)51歳
詩集『北入曽』を刊行

詩集『北入曽』
昭和47年に狭山市に居を構えた吉野さんは、静岡県富士市に転居するまでの35年間、詩の創作だけではなく、校歌の作詞や文芸誌の編集などにも積極的に取り組みました。昭和52年、狭山市に来て初めて刊行された、吉野さんの代表作とも言える詩集『北入曽』には「茶の花おぼえがき」をはじめ、狭山での日常や自然を表した作品が収められています。詩集の題名に地名を用いることは大変珍しく『北入曽』は吉野さんの狭山への愛着がとても感じられる一冊です。

〇昭和58年(1983年)57歳
『文芸狭山』(狭山市立図書館刊)の編集委員を担当し、平成8年まで14年間務める

〇平成元年(1989年)63歳
入間野中学校の校歌を作詞

〇平成2年(1990年)64歳
前年に刊行した詩集『自然渋滞』が第5回詩歌文学館賞を受賞

〇平成8年(1996年)70歳
酒田市から平成8年度酒田市特別功労賞を受ける

〇平成10年(1998年)72歳
第41回埼玉文化賞(芸術部門)を受賞。『市民文芸さやま』第2号(狭山市立中央図書館刊)の選考委員を担当

〇平成19年(2007年)80歳
狭山市から静岡県富士市に転居

〇平成26年(2014年)87歳
米寿を翌日に控えた1月15日、肺炎のため富士市の自宅で逝去。狭山市入間川の慈眼寺(じげんじ)に眠る

■酒田と狭山で愛した景色
吉野さんは茶畑とケヤキ、富士山を特に好んでいたそうです。狭山市の自宅からは茶畑とケヤキの木を眺めることができ、富士市の自宅では富士山が見えるように窓を設けたといいます。幼少期から31歳までを山形県酒田市で過ごした吉野さん。酒田市にある琢成小学校の校歌も作詞しており、鳥海山や最上川などに囲まれ、自然に恵まれた風土の中で育ったことが、この歌詞の中にも表れています。酒田市での「緑の田んぼが広がる向こうに見える鳥海山」という景色と狭山の「緑の茶畑とその向こうに見える富士山」という風景が故郷と重なり、狭山の景色、そして後の富士市における富士山の眺めも気に入っていたのではないでしょうか。