文化 (特集)狭山を愛した詩人 生誕100年 吉野弘の世界をたどる(2)

■吉野弘さんが見ていた風景に触れてみよう
茶の花文学散歩~吉野弘の見た風景~
(※本紙をご覧ください)

▼不老川
両膝をぴったり合わせ脚を曲げたように堤に生えている榎の二本の幹(「脚」詩集『叙景』より一部抜粋)
つくし 土筆 光をたっぷりふくませて 光を春になすっています(「つくし」詩集『自然渋滞』より一部抜粋)

吉野さんは不老川沿いもよく散策していたといいます。かつて下流には「脚」のモデルになった榎の木があり、対岸の住宅付近は春になるとたくさんのつくしが芽生える場所だったそうです。「つくし」からは、散歩の途中に背の高い吉野さんがしゃがみ込み、小さなつくしを優しいまなざしで見つめる姿が思い浮かびます。

▼茶の花おぼえがき誕生の地
栄養生長と成熟生長という二つの言葉の不意打ちに会った私は、二つの生長を瞬時に体験してしまった一株の茶の木でもありました。(「茶の花おぼえがき」詩集『北入曽』より一部抜粋)

◇吉野さんが衝撃を受けた「成熟生長」という言葉
詩集『北入曽』にある「井戸端園の若旦那が、或る日、私に話してくれました」で始まるこの詩は、私と吉野さんとの会話を基に生まれた作品です。吉野さんの自宅からは茶畑が見え、私が茶の木の手入れ作業をしていることを確認すると、よく畑に入ってきて、作物や育種のことなどを熱心に尋ねてきました。奥さんから「忙しいのに、何度も伺って申し訳ない」と言われるほどでした。
会話の中でとりわけ吉野さんが衝撃を受けていたのは、私が発した「成熟生長」という言葉です。「茶の木は肥料が多いと花をつけず、栄養が尽きたり吸収できなくなったりすると花を咲かせる。花は“終わり”であると同時に、次の世代の“始まり”でもある」ということを話しました。この自然の営みが、もともと吉野さんの根底にあった「いのち」というテーマと重なったのだと思います。

▼慈眼寺(入間川1-9-37)
吉野さんの墓所があり、自身の詩「草」「いのちは」が刻まれている詩碑があります。
(狭山市駅周辺)

◇優しさの奥に凛とした一本筋のある方でした
優しく穏やかな吉野さんは、言葉を大切にする几帳面な方で、寺報を送るとすぐに感想を寄せてくださいました。吉野さんが寺を訪れると長く語り合いましたし、ある時はこどもを見ると「愛おしくて涙が出る」と涙を流すような感受性の豊かな方でした。お盆の法要には何か感じるものがあったようで、毎年早めに来られては準備する人の様子を本堂に座って静かに見守っていました。
境内にある「いのちは」という詩を刻んだ碑は私が建立しました。この詩を選んだのは、作中にある「世界は多分他者との総和」という言葉が、仏教の「縦に繋がる総和」という思想と通じると感じたからです。吉野さんという狭山市ゆかりの詩人がいたことを、詩碑を通して後世に残していきたいと思っています。

▼常泉寺
樹の目標は何か、完成とは何かもちろん、人は知りもしない。(「樹木」詩集『陽を浴びて』より一部抜粋)

この地域はかつて武蔵野の雑木林が広がる自然豊かな場所でした。境内にもかつてはケヤキや銀杏の大木があり、散歩をしながら娘さんたちにケヤキの話をしたそうです。

▼野々宮神社
縦一列の高層ビル「竹」光も入らない円筒形の部屋ばかり(「竹」 詩集『自然渋滞』より一部抜粋)

作品の舞台かどうかははっきりと分かっていませんが、神社内の立派なケヤキと銀杏は、吉野さんの自宅から眺めることができたそうで、この辺りの竹林も目にしていたと考えられます。吉野さんは竹を見てビルを思い浮かべたのか、それともビル群を見て竹を重ねて想像したのか。その発想の源に思いを巡らせると、興味深く眺めることができます。

▼金剛院
寺の本堂前銀杏の巨木が喪服の人の右に左に熟した金色の実をしきりに降らせていた。(「銀杏」詩集『叙景』より一部抜粋)

金剛院の境内には詩のモデルとなった大銀杏があります。現在は一部を伐採し、当時よりも少し低くなっているようです。詩では「寺は幼稚園を兼ねていた」と紹介され、こどもたちの生き生きとした様子や、法事に来ていたと思われる喪服の人々の姿も描かれています。お寺にある大きな銀杏を主役として、こどもたちから大人たちまでの、自然と日常の営みが凝縮されているような作品だといわれています。