文化 青淵遺薫(せいえんいくん) 栄一のちょっと小話(こばなし)

■『中瀬河岸場(なかぜかしば)』
中瀬河岸場は、江戸時代に武蔵国(むさしのくに)と上野国(こうずけのくに)を結ぶ利根川の船着き場として栄えました。その始まりは、1607(慶長12)年、江戸城の修改築のために、中瀬から栗石(くりいし)を輸送したことからといわれています。
その後、1787(天明3)年の浅間山大噴火により、火山性泥流が中瀬まで押し寄せ、利根川上流の川床が盛り上がったため、中瀬で小舟から大舟への乗り換えや積み荷の積み替えが行われ、上州との渡船場(とせんば)でもあったことから、『川の関所』としての役割を担っていました。また、中瀬から江戸への『下り』は通常3日位を要し、江戸からの『上り』は15日から天候によって20日ほどを要しました。
中瀬河岸場が大いににぎわったのは、幕末から1884(明治17)年の高崎線開業までで、1875(明治8)年には、船の数が高瀬船18艘(そう)をはじめ、合計101艘ありました。河岸場の道沿いには旅籠(はたご)や料理屋、居酒屋、お茶屋などが立ち並び、風呂屋、酒屋、菓子屋、魚屋、鍛冶(かじ)屋、医者も開業し、さらに、2軒の廻船問屋(かいせんどんや)もありました。取り扱った荷は、年貢米、大・小麦、葉藍、藍玉、蚕種(さんしゅ)、桑苗、肥料、干鰯(ほしか)、清酒、塩、醤油、酢、砂糖、味噌などで、活発な物流で地元の産業が栄えました。
そのにぎわいの中で栄一は、1863(文久3)年に尊王攘夷(そんのうじょうい)の企てをした際、江戸で買い求めた武器を密かに中瀬に陸揚げしました。また、1869(明治2)年2月には、妻千代(ちよ)と長女歌子(うたこ)はフランスから帰国した栄一からの手紙をもらい、中瀬河岸場から船に乗り、東京で栄一と落ち合いました。