- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県深谷市
- 広報紙名 : 広報ふかや 2025年6月号
■富岡製糸場と韮塚直次郎(にらづかなおじろう)
深谷市明戸出身の韮塚直次郎は、渋沢栄一のいとこである尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の祖父が営む油屋で働く職人の子として、1823(文政6)年に生まれ、搾油(さくゆ)業を営む韮塚家の養子となりました。搾油業のほか、農業や藍染業、蚕種(さんしゅ)業も営んでいましたが、1871(明治4)年3月、富岡製糸場建設責任者の惇忠の求めに応じて富岡へ向かいました。
直次郎は建設資材調達を担当し、約33万枚の瓦と60万個のれんがを現群馬県甘楽(かんら)町福島で焼き上げます。初めて見るれんがは、焼成(しょうせい)方法について分からないことが多く、瓦職人らと試行錯誤を繰り返して焼き上げたのです。また、富岡製糸場の基礎となる大小約4千個の礎石(そせき)は、現甘楽町小幡(おばた)にある連石山(れんせきざん)の山腹から切り出しました。富岡製糸場は着工から1年6カ月後の1872(明治5)年7月、世界にも誇れる巨大な模範工場として完成しました。直次郎50歳の時でした。
富岡製糸場の操業後、直次郎は食堂の賄方(まかないかた)(食事を用意する人)に指名され、工女や職員の胃袋を支えます。さらに、工女の募集のため彦根(ひこね)に赴き、150人を超える工女を入場させています。そして、富岡製糸場の正門近くに私設の製糸場を創業して、娘らが入場するまでの間に器械操糸技術を学ばせました。また、県内の繭(まゆ)を富岡製糸場へ送ったり、製糸場錦絵(にしきえ)の発行をしたり、肥料店の営業や乗り合い馬車会社の設立も行いました。
直次郎は、栄一や惇忠の示した道を自らの場所と定めて誠実に取り組み、『一人の豊かさよりも皆の豊かさ』を体現した生涯を送ったのでした。