文化 香取遺産(vol.230)

■古墳を再利用した経塚(きょうづか)
今回は、西和田地区に所在した経塚を紹介します。本来は径約9m、高さ約2・4mの円墳でしたが、千数百年の時を経た江戸時代に経塚として再利用されたものです。
経塚は、経筒や経箱に仏教経典の写経を入れて埋納し、塚を築いたものです。平安時代は経典の保存が目的でしたが、鎌倉時代以降は現世利益(りやく)祈願・供養が目的となりました。写経は、材木を紙のように薄く削った経木(きょうぎ)に書き写したもの、小石に墨書をした経石(きょういし)などがあります。経石には一石に一字を書く一字一石経が普通です。これを埋納し、建てた石碑を一字一石塔といい、この塚にも建立されていました。調査では、頂に掘られた穴から経石が6万9千個近く出土しました。
一字一石塔には、いつ、誰が、何のために祈願・供養したかが刻まれています。
正面には「寛保(かんぽう)三(1743)年、尾州笹野(びしゅうささの)(現在の愛知県一宮市)妙光寺の檀信徒が発願し、大乗経(だいじょうきょう)(法華経(ほけきょう))の一字一石経を埋納した」とあります。願文は側面に刻まれ、その大意は「下総香取郡和田村梅林禅寺(現在、西和田には梅林寺があります)を訪れ、そこで生涯を終えた『實春(戒名)信士(位号)』の33回忌の法要と村人や檀信徒の先祖供養と子々孫々にわたる一切の利益を祈願する。亡き母を思い経木に代える石を拾い集め、香をたき身を清め、写経を成し遂げ供養する」です。
この背景には、前年に関東地方を襲った大洪水がありそうです。大型台風により村人にも作物にも甚大な被害が出ました。亡き母もこの災害の犠牲者なのでしょうか。まだ傷も癒えぬ翌年、現世と来世の安寧(あんねい)を切に願ったのでしょう。思いを巡らせると今でも身につまされます。

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