文化 ちょうなん歴史夜話

■長南開拓記(82)~官道と駅家~
律令国家の成立によって、畿内から七道(東海道・東山道・山陽道・山陰道・北陸道・南海道・西海道)には、それぞれ官道が設けられましたが、それらの道にはランクが設定されており、最上位は山陽道が「大路」、続いては東海道と東山道で「中路」、それら以外は「小路」とされていました。山陽道が重視されていたのは、都と太宰府との連絡路であったことが大きな理由でしょう。太宰府自体は西海道に属する筑紫国(現在の福岡県)にありましたが、ここは古代日本の外交・軍事において重要な拠点でした。一方、東海道・東山道の場合は、東北地方への連絡路であったことが、重視された理由と考えられます。東北地方にあった陸奥国は東山道に属してはいましたが、当時、この地域には中央政府の支配が及ばない「蝦夷(えみし)」の集団がいて、中央政府にとっては陸奥国の支配権確立が重要課題であったからです。
さて、これら官道には、一定の間隔で「駅家」(えきか・うまや)という施設が設けられていました。駅家は令によって三〇里(約一六キロメートル)ごとに設ける、と定められていましたが、実際には地形や道の重要度によって、間隔にはバラつきがあったようです。駅家の監督業務を行うのは国司で、駅周辺の農家が「駅戸」として運営を担っていました。また、駅家には定められた数の駅馬が揃えられており、その数は大路の駅家が各二〇、中路では各一〇、小路では各五でした。内部の施設としては、宿泊・休憩施設、食事を提供するための部屋、駅長や駅子の詰所、駅馬の厩舎、物資の倉庫などが設けられていたとされます。駅家を利用できるのは、原則として中央と各地の国司との間を伝達する「駅使」や、公用での駅馬利用が許された官人などでしたが、官道を通るのは役人だけではありませんでした。天平十年(七三八)の『駿河国(現在の静岡県)正税帳』には、任期を終えて帰国する防人に、正税から食料を支給した記録が残されています。その人数は千人を超え、うち房総出身者は上総国二二三人、下総国二二七人、安房国三三人であり、多くの房総出身者が、防人に徴発されていたことがわかります。

東京湾を渡っていた時期の古代東海道と駅家。軍神を祀る鹿島神宮と香取神宮は、対蝦夷政策の重要施設として支道が通っていた。771年には武蔵国が東海道に編入され、本道が武蔵・下総経由にルート変更された
※地図は本紙をご確認ください

(町資料館 風間俊人)