- 発行日 :
- 自治体名 : 新潟県関川村
- 広報紙名 : 広報せきかわ (2026年1月号)
■「江戸時代わが村の暮らし」(56)
草刈場争いの決着は、なんとも寛大
〜「歴史とみちの館」」所蔵・平田家文書を読む〜
(村歴史文化財調査委員 渡辺 伸栄)
両関(上関・下関)の衆が荒川を越えて草刈りに入り、小見組(荒川右岸の村々の組)から、訴えられました。
天和二(一六八二)年のこと。関川村一帯は村上藩領でした。
両関の衆は、前々から小見組の仲間に入って草刈りをしていたのだ、と主張します。が、小見組は、そんなことは認めてない、と否定します。
取調べの結果、村上藩は、
「組の仲間である証拠はない。しかし、両関は肥え草が不足していて、前々から草刈りに入っていたのだから、双方よく話し合って、小見組の村々が困らない程度に仲間並みにしてやるべきである」と言い渡しました。何とも寛大です。
これに、小見組の村々は反発するかと思いきや、草刈り場を指定して、これまた寛大に両関を受け入れました。
肥え草は大事な肥料で、それが不足して田畑が不作では、領主も農民も困ります。それに、荒川右岸には草地が豊富にあったのでしょう。
前々から黙認していたようで、多分、年を経るにつれて当然のように我もの顔で入ってくるのが腹立たしかったのでしょう。頭を下げて頼んでいれば、訴え出たりはしなかったのかもしれません。
ということで、今回はきちんと、両関の役員連名で約束の証文を提出しました(写真)。こんな内容です。
(1)小見組の田植えが終わってから、指定地《東は「なしか沢」、南は「どす舟横道」、西は「よしか沢」、北は「峰」までの範囲内》と《高瀬川原の大土手の外》で、肥え草を刈り、それ以外の場所では刈らない。
(2)ただし、田植えが終わらないうちは《小見・上野山の中野》で、かり敷き草を刈る。田植えが終わったら、ここでは刈らないで指定地で刈る。
(3)小見組の田畑を絶対に荒らさない。使用人にもよく言っておくが、もし荒らしたら当方に言いつけてほしい。
(4)干し草は、用水に支障が出ないよう盆後に刈る。盆前には絶対に刈らない。
(5)立木は絶対に伐らない。もし伐ったらナタ・マサカリを取り上げてもらう。
これで、めでたく合意成立。
草は、田畑の肥料や家畜の餌として大事な天然資源でした。かつては私の母たちも、野良の帰りには、背中いっぱいの草を担いで来たものです。遠い昔になりました。
※原文と解説は歴史館に展示、又は、下のQRから
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