文化 ふるさと散歩道

■第373回 文化財編(50) 一向一揆の攻防と西光寺の歩み
織田信長の最大の敵、大坂(石山)本願寺を本拠地に11世法主顕如(ほっすけんにょ)率いる一向一揆との戦いは元亀元年(1570)に始まりました。信長は本願寺勢の拠点である伊勢長島や越前を攻撃し、天正3年(1575)には木ノ芽峠に西光寺丸を築いた石田の西光寺5世真敬を大将とする一向一揆の防御線を破って府中になだれ込みました。その後、顕如は大坂本願寺に雑賀衆(さいかしゅう)を呼び寄せ、毛利(もうり)輝元(てるもと)・足利(あしかが)義昭(よしあき)と与して籠城戦を展開しましたが、5年後、ついに信長に屈して大坂から去りました。
石山合戦の翌年、真敬の子真助は顕如より法名を授かり、文禄4年(1595)に東郷領主長谷川(はせがわ)嘉竹(かちく)から「鳥羽野のはつれ」「立町向野」の寺地を寄進されました。このとき伏見滞在中の真助には嘉竹の側近吉田直次から祝意を表す書状が届き、円満な関係を築きながら西光寺の復興が進んだことが伺えます。
さて、信長の家臣であった嘉竹は本能寺の変後、豊臣秀吉に仕え、子の秀一(ひでかず)は豊臣姓を賜りました。しかし、文禄の役(朝鮮出兵)中に病没し、長谷川家は無嗣断絶したとされます。
慶長3年(1598)、大坂本願寺跡地に築かれた大坂城には秀吉の愛児秀頼が入り、来たる最期の戦いまでの日々を重ねました。
(文化課 藤田彩)

◇令和7年度指定の市指定文化財(1)
西光寺文書(杉本町)