文化 山中湖村 村史だより vol.22

■古代の道路「甲斐路」(2)(甲斐路は山中を通ったか、平野を通ったか)
前回の11月号では、甲斐路が富士河口湖町河口から発掘されたことをお話しました。今回は、その続きです。一番気になるのは、都と甲斐国国府(今で言う県庁)を結ぶ甲斐路が山中湖のどこを通ったかという問題です。このことは江戸時代から大きな関心事です。主に2つの説があります。それは、
(1)山中を通った説…籠坂峠の名前が当時役人が乗る馬を乗り替える加古駅に由来?
(2)平野を通った説…ヅナ峠が宝永噴火以前の重要な交通路だったことに由来
この2つの説は、戦後でも大きな話題になり湖に潜ったり湖中の枯れ木を探したりと色々な出来事になりましたが、結論は出ませんでした。この難題は山中集落や平野集落の始まりにつながる重要なことなので、村史編纂委員会では正面から取り組みました。目を付けたのは富士吉田市の地形です。富士吉田市内でも冨士山の溶岩流が幾筋も流れています。富士山の溶岩流は比較的粘りがあるので溶岩流の縁が膨らみます。ゴロゴロした溶岩流の中を甲斐路を通すためには、客土したり、縁を切り開いたりとかなりのことをしないといけません。甲斐路の開通は7世紀と考えられますので、開通当時に剣丸尾溶岩流はありません。
地図は、富士吉田市域の甲斐路想定です。河口から山を越えた甲斐路は富士吉田市の平坦地では直線だったと考えられます。この直線路は、だいたい新倉浅間神社下(1)~下宮(下吉田浅間神社)脇(2)~大明見浅間神社脇(5)を真っ直ぐ通ったと考えています。(*ここの場合、甲斐路が開通したことと浅間神社は無関係です)根拠は、桧丸尾溶岩流でできた旧大明見湖を避けるような道が現在でも残り(6)、大明見浅間神社脇に残る道(5)は、桧丸尾溶岩流の一番狭い所に向かい、そのまま桧丸尾溶岩流をまっすぐ越えると溶岩流の縁を切り開いた跡(4)が残っています。ここは昔から大明見村と下吉田村の出入り口でした。現在のはま寿司の近くになります。そして、この甲斐路想定路の脇には下吉田の古い集落地(3)があり、平安時代に剣丸尾溶岩流で大被害を受けたであろう下吉田の集落再建?の守護神である下宮(下吉田浅間神社)(2)が後からできています。もし、この説が正しいのなら、甲斐路は富士吉田市・忍野村境の鳥打峠を越えますので、甲斐路は平野を通ったことになります。
次回3月号では、忍野村から平野への道をお示しします。
※詳細は本紙をご覧ください。