文化 文化なかの「公民館報」No.249 (通巻 No.781) ~ふるさとの歴史

■大俣の舟渡し
~橋なき時代、人々の暮らしを支え続けた川の道~

かつて中野市には、千曲川を渡るための「舟渡(ふなわた)し」が、腰巻(こしまき)(古牧)・上今井・立ヶ花・大俣の4カ所に設けられていた。このうち、大俣の舟渡しは、唯一舟橋(ふなばし)や永久橋に架け替えられることがなく、最後まで舟で人や荷物を運び続けた貴重な存在であった。
大俣の舟渡しが始まったのは、江戸時代中期の1769(明和6)年である。大俣村では、周辺の舟渡しに支障が生じて年貢米を運ぶのに困ったため、自分たちで舟渡しを行うことを決意した。
とはいえ、舟の建造費は大俣村にとって大きな負担であった。そこで、近隣の村々に寄付を募って資金を集めた。大俣村の願いから始まった舟渡しであったが、地域ぐるみで支え合っていたことがわかる。
明治時代に入ると、他の舟渡しは次々と舟橋や永久橋に架け替えられていった。それでも大俣の舟渡しは橋に替えられることはなく、より便利で運営しやすいように工夫を重ねながら続けられた。
その背景には、周辺にすでに舟橋や永久橋が建設されていたこと、千曲川の流れや地形の影響で橋の架設が難しかったことなどがあった。舟渡しを続けることは、大俣村にとって最も現実的な選択だったのである。
しかし、自動車が普及するにつれて舟渡しは次第に使われなくなり、1959(昭和34)年には村による運営が終了した。最終的には昭和35年2月16日をもって完全に廃止され、約200年に渡る歴史に幕を下ろした。
人々の暮らしを支え続けた大俣の舟渡し。その歴史には、交通の工夫と地域のつながりが息づいているのである。
寺島正友「高井」会長