文化 森町の歴史~遠州の小京都ばなし~ 教育委員会社会教育課

■第十二話 日本近代建築板金の泰斗・山田信介(その三)
(広報もりまち令和7年3月号「森町の歴史・第11話」からのつづき)
森町は古来鋳造が盛んで、徳川家康から「駿遠両国鋳物師惣大工職(すんえんりょうこくいもじそうだいくしき)」の朱印状を授かった森町村の山田七郎左衛門家は、駿遠両国の鋳物の製造と販売を代々取り仕切りました。
幕末の文久3年(1863)9月に山田七郎左衛門家に生まれた山田信介は、明治15年(1882)、二十歳の時に上京し、東京職工学校(現東京科学大学)の一期生となり新たな道を歩み始めます。明治19年(1886)7月に機械科を卒業すると、校長の推薦によりベックマン貸費生に選ばれました。ヴィルヘルム・ベックマンは、時の外務大臣井上馨が西洋建築による官庁集中計画のために招聘(へい)したドイツ人建築家で、ベックマンの進言により明治政府は、技師職工育成のためにドイツへ20名の留学生を派遣することを決めました。その中の6名については、留学費用をベックマンが立替えることになり、この貸費生に選ばれた山田信介は、同年11月、建築板金を学ぶためにドイツのベルリンへ留学しました。家康の御用鋳物師を務めた山田家は、日本の西洋建築の夜明けを支える建築板金工を目指すことになったのです。
留学生たちの現地における生活は苦労の連続でした。『明治工業史』によると、ドイツ語を二カ月間勉強した後に各専門に分かれて工場に配属され、12時間労働後に夜学にも通いました。体力が持たずに病床に伏す留学生も多かったそうです。つづく。

参考:松本茂「四天王寺頌徳鐘と山田信介」『遠江』第42号(2019)

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