文化 森町の歴史~遠州の小京都ばなし~ 教育委員会社会教育課

■第十四話 日本近代建築板金の泰斗・山田信介(その五)
(広報もりまち令和7年7月号「森町の歴史・第13話」からのつづき)
明治時代初期、外務大臣の井上馨は、西洋建築による首都構築を目指して官庁集中計画を立て、都市計画及び主要建造物の設計をドイツ人のエンデとベックマンに依頼しました。
井上は、ベックマンから、技師職工の育成が急務であるとの進言を受け、明治19年(1886)11月、政府はドイツに20名の留学生を派遣しました。その中には、当時の臨時建築局技師、妻木頼黄(つまきよりなか)、渡辺譲、河合浩蔵が含まれ、建築板金の専門として、東京職工学校(現東京科学大学)の第一回卒業生である森町生まれの山田信介も含まれていました。
しかしながら、井上が明治20年(1887)に失脚したため、官庁集中計画は中止となり、留学生達は明治23年(1890)3月に帰国。ベックマンは、議事堂、大審院、司法省の3棟の設計のみを行うことになりました。
議事堂は、ベックマンの設計から変更となり、現在の経済産業省の敷地内に木造の仮議事堂が建設された後、最終的にベックマンが当初計画した予定地、現在の地に国会議事堂が建てられました。大審院と司法省は、明治28年(1895)に完成しました。実施設計・工事監理を担当したのは、大審院は妻木頼黄、司法省は河合浩蔵。両方の屋根の板金工事は、山田信介が手掛けました。
これ以降、ドイツ留学でベックマンに学んだ留学生は、日本の名立たる西洋建築の建設に次々と携わり、大いに活躍しました。つづく。
参考:帝都興信所『土木建築請負並に関係業者信用録』い-く之部(1930)

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