文化 〔連載コーナー〕歴史探訪クラブ 其の256

■烏丸資任(からすまるすけとう)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
保美町の農村公園に「烏丸(からすまる)の墓」と書かれた看板と石塔があります。これは、烏丸資任(からすまるすけとう)という人物に由来するものです。資任は、室町幕府八代将軍足利義政の側近で、大納言のちに従一位准大臣(じゅいちいじゅんだいじん)と位人臣(くらいじんしん)を極めた公卿(くぎょう)です。将軍の母、日野重子のいとこで、義政の政治を思うままにし、有馬持家(ありまもちいえ)、今参局(いままいりのつぼね)とともに「三魔(さんま)」と呼ばれました。
応仁元(1467)年、将軍の後継をめぐって細川勝元の東軍と山名宗全(やまなそうぜん)の西軍が激しい市街戦を展開し、応仁の乱となりました。多くの寺社が焼失し、公卿や僧侶は、地方へ都落ちしました。資任が選んだ保美の里は、以前畠村(福江)などとともに伊勢神宮領伊良湖御厨(みくりや)でありましたが、当時は烏丸家の公卿領でした。
邸宅を焼かれた資任は、志摩国から海路で保美の里に逃れました。『常光寺年代記(じょうこうじねんだいき)』に「応仁元年烏丸殿九月八日出家 法名青誉(ほうみょうせいよ)」とあり、出家し霊山寺(れいざんじ)二世として16年間暮らし、文明14(1482)年に亡くなりました。『烏丸家譜(からすまるかふ)』には「文明十四年十二月十五日於参州薨(さんしゅうにおいてこうず) 六十六歳号蓮光院葬同州伊羅古庄常光禅寺(れんこういんどうしゅういらごのしょうじょうこうぜんじにほうむる)」と書いてあります。
資任が保美にあって特筆すべきことは、資任を剃髪した潔堂義俊(けつどうぎしゅん)を開山、自らを開基として堀切に常光寺(じょうこうじ)を建立(応仁2年)したことです。
『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』には、没後2年後の文明16年12月16日に将軍義政列席のもとに、京都の知恩院で法要が行われたことが記録されています。
霊山寺の裏の保美公民館の西側の公園内には、墓ではなく資任を供養する「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が建ち、この公園の愛称は、資任にちなみ「烏丸公園」と呼ばれています。
(学芸員 天野敏規)

問い合わせ:
文化財課(博物館)【電話】22-1720
吉胡貝塚資料館【電話】22-8060
渥美郷土資料館【電話】33-1127