文化 KUSATSU 歴史ギャラリー No.211

■山伏の絵師 横井金谷(よこいきんこく)が描いた「瀑布図(ばくふず)」
「近江蕪村」と称される横井金谷は宝暦11(1761)年、栗太郡下笠村(くりたぐんしもがさむら)(現在の草津市下笠町)に生まれました。本職は浄土宗の僧侶であり、京都の北野にあった金谷山極楽寺(きんこうさんごくらくじ)で住職となりました。この山号「金谷山」から雅号「金谷」が名付けられています。その後、天明8(1788)年に起こった京都大火で極楽寺も類焼します。金谷はこれを機に、城崎(兵庫県)での湯治(とうじ)に出て、続いて、瀬戸内地方から、はるばる長崎、天草(熊本県)までを訪れました。法善寺(大阪府)に滞在した時、仏画を手掛けたのが絵を描くきっかけとなったと自伝「金谷上人御一代記(きんこくしょうにんおいちだいき)」で語っています。「金谷上人御一代記」には、突飛で滑稽な記述も多く、その全てが事実かは明らかではありません。しかし、金谷の前半生は「旅する奇僧」として生きたといえるでしょう。

文人画を描き始めたのは放浪の旅をしながらも名古屋に留まった30代後半頃からのようで、近江出身の南画(なんが)家・張月樵(ちょうげっしょう)に教えを受け、与謝蕪村(よさぶそん)の風景画を模写したのが始まりです。

その後、文化6(1809)年、修験道の道に入り、大峰山(おおみねさん)で山伏(やまぶし)として修行をしています。霊山での荒行や自分の籠った深山(しんざん)での経験は、金谷の芸術に深い影響を及ぼしました。放浪のうちに生涯のほとんどを送り、修験者であった金谷の自然を描いた風景画は力強く、与謝蕪村とは違った金谷の山水画の世界感があります。その霊山(れいざん)巡拝の経験は、中国を模した険しい山よりも、はるかに大らかな型にはまらない筆遣いに変様させました。

本図は、12カ月の風景を描く揃物の中の一幅で、6月の風景を描いています。緑の山塊より流れ落ちる瀑布が生み出す涼しげな風景は、自由奔放な筆致(ひっち)で描かれています。その前で宴を催す人々もどことなく楽しげで、自然を敬う気持ちが伝わってくるようです。

7月21日(月・祝)まで、草津宿街道交流館の2階で7月の絵と併せて展示していますので、ぜひご覧ください。

問合せ:草津宿街道交流館(草津三)
【電話】567-0030
【FAX】567-0031