文化 【たかつき歴史アラカルト134】富田で没した細川京兆家の当主・細川晴元

■富田で没した細川京兆(けいちょう)家の当主・細川晴元(はるもと)
細川京兆家は、室町幕府の要職である管領を務めた細川氏の本家です。当主が代々「右京大夫(うきょうのだいぶ)」に任じられたため、唐(中国)の官職名である「右京兆」にちなんでこのように呼ばれました。
戦国時代、細川京兆家の当主・細川政元が暗殺されたことをきっかけに同家の家督を巡る内紛が始まりました。政元の養子であった細川澄元は、芥川城を築いた細川高国と家督を巡って争い、敗れました。続いて高国に挑んだのが澄元の子、細川晴元でした。
享禄4(1531)年、晴元の家臣である三好元長(長慶の父)が高国を敗死させました。これにより京兆家の後継者となった晴元ですが、対立した元長を自害に追い込んだり、自身に味方した一向一揆勢力を攻撃したりと混乱を引き起こしました。そのため、晴元は一時期入京できず、芥川城に滞在しました。在城中は権力者である晴元のもとへ朝廷や公家、寺社などさまざまな人が訪れています。
その後、入京した晴元は将軍足利義晴のもと、幕府政治を主導します。しかし、天文18(1549)年に三好長慶の離反により、晴元は義晴とともに近江国(滋賀県)へ逃れました。
義晴の死後、跡を継いだ足利義輝は長慶と和睦し、長慶の擁立した細川氏綱(高国の養子)が京兆家当主となります。その後も晴元は長慶に対立する立場を取り続けました。
永禄4(1561)年、長慶と和睦した晴元は、出家して富田の名刹(めいさつ)・普門寺へ入りました。そして同6年、同地で生涯を終えました。
普門寺には晴元の墓と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っています。
(しろあと歴史館)