- 発行日 :
- 自治体名 : 大阪府和泉市
- 広報紙名 : 広報いずみ 令和8年1月号
■身分を超えたお付き合い 「城下町」伯太村の村掟
『和泉市の歴史』も残すところあと一冊。しかし、すでに刊行を終えた地域でも、未調査の史料が発見・提供され、これまで知られていなかった歴史が明らかになっています。その一端を紹介しましょう。
時代ごと、村ごとに様ざまな村の掟(おきて)が作られました。そのため、村の掟には、当時の村の様子を知る手がかりが潜(ひそ)んでいます。また、村の掟には、領主・権力の影響を強く受けたものも多くあります。譜代大名(ふだいだいみょう)渡辺家の陣屋(じんや)があった伯太村では、他の地域とは少し異なる個性的な村掟が作られました。
渡辺家が伯太に陣屋を構えたのは享保(きょうほう)12(1727)年です。陣屋は、信太山丘陵にあった伯太村の山を切り開き、突貫工事で作られ、その後18世紀中頃(明和(めいわ)年間)まで改造されました。陣屋が完成するまでの間、家臣の幾人(いくにん)かは、村の百姓らの土地に住んでいました。丘陵に御館(おやかた)(藩主居館)や家臣たちの屋敷を配置し、小栗(おぐり)街道を陣屋の門前(もんぜん)とし、街道から北側には伯太村百姓の集落が位置する、城下町のような景観が形作られました。
こうした景観が一通り整ったころの村掟が、伯太村で作られました。
明和5(1768)年2月藩は、博奕(ばくち)がはびこっているという情報をうけ、伯太村に対して、博奕の場を提供する「(博奕)宿」があれば藩へ報告することと、村の掟を作り、「過料(かりょう)(罰金)」を定めることを命じました。そこで、伯太村は、博奕の宿をした者は罰金銭三〇〇〇文、その隣の家も罰金銭一〇〇〇文、博奕に加わった人は罰金銭二〇〇〇文を過すという村の掟を決めました。場所を提供する宿を厳しく処罰することで、博奕が行い得ないようにしようとしたのです。
明和7(1770)年正月の「村定請書覚(むらさだめうけがきおぼえ)」にこの内容は引き継がれました。第一条目で伯太藩に対する御恩(ごおん)を忘れずに重んじること、御家中(ごかちゅう)を敬うべきことを命じています。そのうえで、第二条では博奕宿や博奕をした者を厳しく処罰し、その家族も村から追放することにしています。また、博奕宿の隣家は罰金銭五〇〇〇文を徴収し、牢屋の費用などに充当する、としています。二年前よりも処罰が重くなっており、博奕は一向に収まらなかったことがわかります。
実は、博奕は百姓だけの問題ではなかったのです。その約半年後に藩から村に法令が出されました。
藩の家中の者たちが伯太村の集落や門前で、酒会を催すことが問題とされました。そこで藩は、村に対して、家中らに酒の座敷を貸したり、居酒などを提供したりすることを禁じました。と同時に、博奕の宿も禁止しました。博奕は武士たちも加わっていたのです。とくに、門前に対しては、家中のものが酒興のあまりに理不尽な事をし兼ねないので、その様な者がいれば、村役人へ訴えるように命じています。「御城下」である伯太村は、百姓と武士が親しく交わる機会が多く、他の地域とは異なる村掟が作られました。
問合せ:市史編さん室(いずみの国歴史館内)
【電話】53・0802
