文化 コラム「柏原の歴史」

「雁多尾畑(かりんどおばた) 光徳寺(こうとくじ)」

本市東部、標高200mほどの雁多尾畑地区に、照曜山(しょうようざん)光徳寺があります。昨年度から、歴史資料館では、大阪歴史博物館 大澤研一館長と共同で、その総合的な文化財調査を実施してきました。
光徳寺は、聖徳太子以来の仏教文化が息づく大和川沿いの龍田古道に近く、また、生駒・金剛の山やまを往来する修行僧や修験者(しゅげんじゃ)が往来したこの地に、平安時代中期、円融(えんゆう)上皇の勅願寺(ちょくがんじ)として開創され、その後、時を経て、信貴山(しぎさん)の毘沙門天(びしゃもんてん)の霊夢を得て当寺を再興した信乗(しんじょう)(俊円(しゅんえん))が親鸞(しんらん)の弟子となり、真宗寺院として成立したと縁起にみえます。中世以来、教学の拠点として『歎異抄(たんにしょう)』などの聖教(しょうぎょう)類(経典や高僧の言葉をまとめたもの)が書写・集積され、現在も日本屈指の質・量をほこります。
八代 乗順(じょうじゅん)のとき、本願寺の蓮如(れんにょ)が大坂に坊舎を構えると、光徳寺は当地に支坊(難波宮跡(なにわのみやあと)の南方)を得て、やがて本願寺教団を支える重要な存在となりました。その後の戦乱(石山合戦)で織田信長に明け渡すことになりますが、光徳寺、そして真宗の門徒らは大坂残留を許され、天下人豊臣秀吉の大坂城下町で活躍を続けます。彼らこそ、淀川・大和川の沿岸や大阪湾岸を開発し、また、商いを手広く行なって、現在に続く大阪のまちを構築した立役者と言える人びとです。
今年度の歴史資料館夏季企画展では、開基 信乗750回忌の節目の年にあたって、光徳寺の貴重な宝物を特別に多数展観します。この機会に、ぜひご覧ください。