文化 我がまち朝来 再発見(第213回)

■朝来町の戦歿英霊芳名碑(せんぼつえいれいほうめいひ)
山口護国神社の境内にある慰霊碑(いれいひ)をご存じでしょうか。「戦歿英霊芳名碑」と記された二つの石碑には、朝来町内から戦地に赴き犠牲となった461人の人々の名前が、地区ごとに刻まれています。その多くは10~20代の若者で、彼らを失った遺族や関係者の悲しみは消えることはなく、現地では毎年、遺族会や地元の人々によって慰霊祭が行われています。今回は、この慰霊碑に刻まれた人々が最も多く派兵された、フィリピン、バレテ峠での戦いについてお伝えします。
朝来町から出征した陸軍兵士は、1938年の編成替え以降、大多数が姫路第十師団に配属されました。姫路第十師団は「鉄部隊」と呼ばれ、日米戦争が苛烈となった1944年7月、南方派遣の出動命令によってフィリピンの首都、マニラのあるルソン島に上陸しました。
フィリピンでは1942年から日本が占領統治を行っていましたが、ダグラス・マッカーサーを司令官とするアメリカ連合軍はフィリピンの奪回を目指し、ルソン島への上陸作戦を決行しました。1945年1月、アメリカ軍航空隊はマニラから西部のリンガエン湾を対象とする爆撃を開始。海軍による艦砲射撃も開始され、3日間で海岸陣地の大半は壊滅し、アメリカ軍の上陸を許すこととなります。
迎え撃つ日本軍は「マレーの虎」と呼ばれた陸軍大将・山下奉文(ともゆき)を司令官とし、艦砲の砲弾が届かない山岳地帯に敵軍を誘い出して持久戦に持ち込む作戦を取りました。内陸へと進む米軍に対する防衛拠点、標高約1000mのバレテ峠の死守にあたったのが、姫路第十師団でした。
2月にはバレテ峠近辺にアメリカ軍が到達、日本軍は山岳地形を利用した頑強な防衛戦を展開しました。しかし、アメリカ軍は野砲を撃ち込みつつも大規模な突撃は控え、別動隊による執拗な奇襲作戦を繰り返しました。制空権、制海権を取られる中で食糧や弾薬は不足し、頼みの綱の野砲隊は全滅。日本軍は壊滅的打撃を受けながらも必死の抵抗を続けますが、5月、ついにバレテ峠は陥落します。
島の大半がジャングルのルソン島で、日本軍は食糧の補給が完全に途絶え、餓死者が続出しました。加えて、多数の兵士がマラリアや赤痢にかかりましたが、降伏は固く禁じられていたため、多くはそのまま死ぬか、自ら命を絶ちました。また、衰弱した状態で抗日ゲリラや現地民族に襲撃され、命を落とす兵士もいました。こうした状況の中、何とか生き残った日本兵は、8月、日本の敗北、そして終戦の知らせを聞くこととなります。
このバレテ峠や付近のサラクサク峠での日本軍の戦死者は約17000人、アメリカ軍の死傷者は約5700人と言われています。朝来町から派兵された人では、76人の尊い命が失われました。激しい戦闘により、バレテ峠はアメリカ軍から後に「血の峠」と言われることとなります。
8月15日は終戦の日。太平洋戦争終戦から、まもなく80年の節目を迎えます。これまでの戦争で犠牲になられた人々のご冥福をお祈りするとともに、このような悲しい歴史が二度と繰り返されないことを、切に願います。
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