- 発行日 :
- 自治体名 : 兵庫県朝来市
- 広報紙名 : 広報朝来 令和7年11月号
■大林寺の鰐口(わにぐち)
山東町迫間(はさま)の山中にある大林寺(だいりんじ)は現在、観音堂しか残っていませんが、その由来は古く和銅(わどう)3年(710)に藤原不比等(ふじわらのふひと)の寄進によって建立(こんりゅう)されたと伝えられ、創建当時の寺領は二千四百石あったとされています。明治時代の絵図には寺の周辺に藤坊(ふじぼう)、大坊(だいぼう)など僧侶の住居と思われる地名が残っており、当時の隆盛(りゅうせい)を思わせます。
しかし、大林寺は戦国時代の豊臣秀吉の但馬攻略にともなう寺領没収や、江戸時代初期の火災による全焼といった出来事で衰退します。幕末に再建されるも、明治6年(1873)に廃寺となりました。
かつての大林寺を知る手がかりのひとつに、旧寺域内と考えられる畑の中から出土した「鰐口(わにぐち)」があります。鰐口とは平らな円形をした中空の金属製品で、お堂や仏堂の軒下にぶら下げ、前につるした綱を振って打ち鳴らすものです。
出土した鰐口は青銅製で直径45cm、厚さ15cmで、中央に蓮の花を模した文様を浮彫りにし、外縁には上部に「但馬国(たじまのくに)」、右側に「大林寺・願主五郎左衛門尉幸信(さえもんのじょうゆきのぶ)」、左に「嘉慶(かけい)二年戌辰(つちのえたつ)正月 大工・橘守正(たちばなもりまさ)」の銘文が線刻されています。
完全な形を保ち、銘文のある鰐口としては但馬地域最古のもので、昭和45年(1970)に県指定有形文化財に指定されています。
銘文に注目してみると、嘉慶2年(1388)は南北朝時代末期にあたり、当時は日本国内が北朝方と南朝方に分かれて対立しており、それぞれ別の年号を定めて使用していました。嘉慶は北朝で使われていた年号です。
願主の五郎左衛門尉幸信は当時の与布土地域の豪族・山崎五郎左衛門尉のことで、室町時代に足利義満(あしかがよしみつ)の家臣結城満藤(ゆうきみつふじ)から領地を与えられたことが記録にあります。
銘文から、この鰐口は五郎左衛門尉幸信が大林寺に寄進したことが分かります。
製作者の橘守正については記録がなく詳細は分かりません。青銅器の製作者が大工と記されているのは大宝律令(たいほうりつりょう)以降、宮内省(くないしょう)では大工の中に鍛冶工(かじこう)も含まれ、総称して大工と呼ばれていた名残りと考えられます。
この鰐口は南北朝時代に作られた貴重なもので、記された銘文が当時の大林寺や与布土地域の歴史について、多くの情報を教えてくれる重要なものとなっています。
畑の中から幸運にも発見されたこの文化財を、今後は私たちが大切に守り、後世に伝えていくことが重要です。
現在、朝来市埋蔵文化財センターで開催中の『文化財で巡る朝来の歴史展』に今回紹介した鰐口が展示されていますので、実物をご覧いただき、歴史を感じてもらえれば幸いです。
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。
問い合わせ先:文化財課
【電話】670-7330【FAX】670-7333【Eメール】[email protected]
