文化 平岩古墳(ひらいわこふん)/毛原廃寺跡

■平岩古墳(ひらいわこふん)

場所:山添村大字岩屋(いわや)
年代:6世紀以前
説明:この古墳は笠間川(かさまがわ)の右岸にある古墳で、外形(がいけい)は昔にかなり破壊されており、径8m以上、高さ2m以上の円墳と考えられていますが、葺石(ふさいし)(古墳の斜面などを覆う石)・埴輪(はにわ)などは確認できていません。
内部はほぼ西に向かって開口する横穴式石室で、側壁は片岩質(へんがんしつ)(鉱物が板状に重なったもの)の割石を積み上げ、天井を花崗岩(かこうがん)で覆っています。玄室(げんしつ)は(遺骸を安置した部屋)長さ約355cm、幅約128cm、高さ約188cmあります。羨道(せんどう)は(玄室から外に通じる道)の長さ約194cm、幅約96cm、高さ約148cmで南側の袖部がある片袖式と呼ばれる様式になっています。
副葬品は刀子(とうす)・須恵器(すえき)の蓋・杯・坩・長頸台付坩(ちょうけいだいつきかん)・土師器(はじき)の壷などがあったと伝えられています。

■毛原廃寺跡

場所:山添村大字毛原(けはら)
年代:奈良時代前期
説明:毛原集落の東部には笠間川(かさまがわ)を望むゆるやかな河岸段丘(かがんだんきゅう)があります。約1300年前から風雪(ふうせつ)に堪えて厳然と残存する巨大な礎石群を散見することができます。毛原廃寺跡は、その礎石群の規模から唐招提寺(とうしょうだいじ)に匹敵する大寺院であったと考えられています。現在までに数回にわたる発掘調査が行われているものの「いつ、だれが、何のために建立したのか」、名称も記録がなく、その性質について定かでないため、「謎の寺」「幻の寺」として関心が寄せられています。
「金堂跡」は桁行23.5m、梁行13.2mの規模で唐招提寺の金堂と比肩されるほど大きな建物であったことや、当時のまま残っている巨大な礎石から悠久の時を感じることができます。
毛原廃寺に関する文献は見つかっていませんが、僧侶が山林修行する寺院であったのではないかと言われています。その後、「板蠅杣(いたばえのそま)(木材を調達する山林)」として利用され木が切り出され、山林寺院としての役割を果たせなくなったため、廃絶したのではないかという説があります。