- 発行日 :
- 自治体名 : 和歌山県紀の川市
- 広報紙名 : 広報紀の川 令和8年1月号
■こぶち騒動と餓死人塚の碑
竹房の「百合山新四国八十八ケ所」一番札所の近くに、『餓死人塚の碑』と呼ばれる安政5年(1858)の碑が建てられています。この碑には、江戸時代中期の天明・天保の大飢饉とそれ以前の大凶作では、多くの餓死者が出たことが記されています。米の不足や価格高騰が現代でも大きな社会問題となっていますが、江戸時代やそれ以前では、餓死や疫病など飢饉に直結する大きな問題でした。飢饉が起きると、百姓一揆が度々起こりました。
文政6年(1823)紀の川流域で最大の、後に「こぶち騒動」といわれる一揆が起こります。4月18日以降全く雨が降らず、用水の争奪が各地で起こったのを皮切りに、6月8日伊都郡名倉村(現橋本市高野口町)の貧しい百姓や職人、日雇い40人ほどが米が高くなったのは米屋が勝手に値上げしているからだとして、米の安売りを要求して米屋を襲います。これに近隣の村民が加わり2千人ほどにまで膨れ上がり、その勢いは橋本の御仕入方役所や伊都郡内の村役人宅を打ち壊し、6月10日には、名手川あたりまで及んできます。人々は、粉河に入ると家並みを片っ端から打ちこわしをはじめ、この様子を物語に記した『百姓一揆談』には「粉河中大騒動となり、家財、衣類を持ち運び、老いたるを助け、子どもをかかえ岸本山、秋葉山へ逃げ登りあわてること油のにえるごとくなり」と記しています。その後2万人ぐらいまで増え、11日早朝には岩出の番所を襲って打ち壊し、船戸まで来た時には数えられないぐらい、おびただしい数に達していたといいます。和歌山城下を目指しますが、藩では厳重な警備を固め、人々は、地蔵の辻(現和歌山市中之島)まできたところ鉄砲、槍の並んだ警備を見てひるみ、町奉行土生広右衛門の要求に対する回答を受け、午後4時頃には引き上げ解散しました。百姓らの要求は、年貢を初代藩主徳川頼宣の頃に戻すこと、他領からの米の移入を認めること、仕入方の専売制の廃止などでしたが、要求は認められませんでした。多くの者が後に逮捕され、首謀とされた33人は死罪になりました。一揆に積極的に参加した村の大庄屋には制裁として過料が課せられ、取り鎮めに協力した者や村には報奨金が与えられました。
その25年後に建てられた『餓死人塚の碑』には、藩の救援もあったが十分でなかったこと、餓死した者の怨念が蛾虫になって作物に害をなさないように冥福を祈ることだけが、ただ記されています。
問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】内線74202(生涯学習課内)
