文化 【特集】日本の教科書が変わる!?「新たな倭国論」とは?(1)

古墳時代は、奈良や大阪を中心とする大和(やまと)王権が主役だと考えられてきました。
しかし、最近の「造山古墳群」の発掘調査によって、これまでの歴史観が揺さぶられる発見が次々と明らかになっています。こうした新しい視点から、「新たな倭国論」を提唱しています。

◆吉備 造山(つくりやま)古墳
≪聞く人≫
最近歴史に興味が出てきた大学生
・どんな新説が出てきているんですか?
≪教えてくれる人≫
考古学者 草原さん
奈良で考古学を学び、岡山市内にある遺跡の発掘調査や古墳の測量調査を約40年間行ってきた
・かつて「吉備(きび)」と呼ばれていた岡山。その吉備が5世紀初頭、大和とともに倭国(日本)の二大勢力を築いていた、という説です。
その理由を解説していきます!

◆根拠1 造山古墳は当時日本最大級だった!?
吉備の王墓「造山古墳」は5世紀初頭に造られ、墳長は350m。一方、同時期の大和の大王墓「上石津(かみいしづ)ミサンザイ古墳」(大阪府堺市)は、墳長が360m。たった10mしか差がないことに驚かされます。
しかも、それまでの時代で300mを超える古墳はほかに見当たりません。つまり、今から1600年前の日本に、圧倒的に巨大な古墳が2つ存在していたことになるんです。

◆根拠2 吉備の王は単なる地方豪族ではなかった!?
奈良時代にまとめられた最古の歴史書、「古事記」と「日本書紀」によると、大和の大王が、各地の豪族を従えていたと書かれています。
しかし、注意深く読んでいくと、吉備出身の女性と天皇が婚姻関係を結んでいる事例が複数あり、吉備が天皇と親しい間柄であったことを示しています。
さらに、九州・東海・北陸・四国には吉備に系譜がつながる豪族がおり、吉備が各地へ豪族を派遣していたことがうかがわれます。そのため、当時の吉備は倭国において特別であったことが分かります。

・吉備は特別な存在だったんですね!

◆根拠3 吉備は独自に交易していた!?
吉備が日本各地や朝鮮半島と交流していたことを示す資料が存在します。
まず、造山古墳の石棺には、熊本県で産出される石材が使われています。また、造山古墳の陪塚(ばいづか)(※)である「千足(せんぞく)古墳」の石室には、熊本県の天草から運ばれた石障や、香川県から運ばれた板石が使われていることが分かりました。吉備がそれらの地域に豪族を派遣したことで、返礼品として受け取っていたと考えられます。
さらに他の陪塚である「榊山(さかきやま)古墳」からは、朝鮮半島から運ばれた馬形帯鉤(うまがたたいこう)、龍文透金具(りゅうもんすかしかなぐ)などが出土しています。それらは大和には見られないことから、吉備に直接運ばれてきた、つまり、吉備は独自で朝鮮半島と交流していたと考えられます。

※陪塚とは…身内、あるいは配下の古墳

・国内外とのつながりを裏付ける出土品がそんなに見つかってるなんて!

以上のことから、吉備の影響力は大和と同じくらい強大だったと言えるのではないでしょうか

・つまり吉備と大和による二頭政治が行われていた、と言えます。当時の倭国の状況をまとめてみると…
※詳しくは広報紙をご覧ください。

◆造山古墳に刻まれた、倭国の壮大な物語
5世紀初頭、吉備の王は大和の王と並ぶ影響力を持ち、倭国において二頭政治を展開していた可能性があります。吉備と大和は協力しながら共同統治を行い、大陸からの脅威に対抗していたのではないでしょうか。この時代の倭国は百済、伽耶と結び、新羅と結んでいた高句麗と戦い、朝鮮半島との交易路を確保していたのです。
造山古墳は、激動の古代史を今に伝えています。吉備が倭国において主役級の立場であったことを誇らしく思いませんか。

・当時の吉備にこんなに力があったなんて知らなかった!