文化 津山の歴史 あ・ら・か・る・と

■江戸時代の人々が食べた塩魚
美作国(岡山県北東部、兵庫県佐用町の一部)は海に面していません。津山藩の儒学者 大村 庄助(おおむら しょうすけ)は『御尋之條々御答(おたずねのじょうじょうおこたえ)書』の中で、美作国は山や海の利がなく、産物も少ない上に、運送にも不便な場所であると述べています。しかし、経済の拠点であった津山には多くの魚介類が集まり、18世紀以降、原則として津山城下の新魚町が独占的に販売を担いました。津山で食べられていた魚の消費や産地について詳しく見ていきます。
まずは倹約令との関係から考えてみます。天保6年(1835)2月に出された倹約令(武士や領民のぜいたくを禁止して、質素な生活を促した法令)では、肉類と鰻うなぎの消費を禁止し、豆腐や野菜類、卵と並んで魚や海老を食べるよう命じています。津山では、多くの魚介類はぜいたく品ではなく、日常的に消費されていたことが分かります。美作国は内陸国でありながらも、日常的に海産物を食べる文化が根付いていたのです。
次に産地について考えてみます。『町奉行日記』の文化9年(1812)10月18日条には、他国の者が塩魚を振売(ふりうり)(店舗を持たず商品を持って売り歩く業態)することを許可する記事があります。このとき許可されたのは鰹(かつお)節・田作・鰯(いわし)・鯨・海老・煎干・鯖(さば)・かます・かき・蛤(はまぐり)・蜆(しじみ)などです。振売は、大荷物を持って歩くため、備前(現在の岡山県南東部)や伯ほう耆き(現在の鳥取県西部)、因幡(いなば)(現在の鳥取県東部)など近隣の国の者であったと考えられます。
この他、魚介類が津山に集まるルートは、吉井川の舟運が中心であったと考えられています。舟運については、津山城下の船頭たちが作成した『当国産物之類并船荷物書上覚控(とうこくさんぶつのたぐいならびにふなにもつかきあげおぼえひかえ)』という史料に書かれています。船頭たちは、田んぼに水を引くために吉井川をせき止めた百姓を、舟運の大きな障害になるとして領主に訴えています。その中で、舟運の重要性を強調し、当時運搬していた荷物について詳しく記しています。塩魚は、鞆(とも)(広島県)・尾ノ道(広島県)・赤間ヶ関(山口県)から「海船」で運び、吉井川を登るルートで津山へ届けられたと記されています。津山の人々が、現在の鞆の浦・尾道・下関の魚介類を食べていたことは非常に興味深い事実です。
参考文献:尾島治「近世内陸城下町の海産物流通ー津山城下町における新魚町の魚類販売特権をめぐってー」(『津山市史研究』第5号)

問合せ:津山郷土博物館(山下)
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