- 発行日 :
- 自治体名 : 岡山県鏡野町
- 広報紙名 : 広報かがみの 2026年1月号
令和八年(二〇二六)の干支は午です。そこで今回は馬にまつわる話を紹介します。
(1)久田原2号墳出土の馬具
日本の乗馬の風習は、古墳時代中期の五世紀代から始まったと考えられています。この頃から古墳の副葬品に乗馬に使用された馬具が加わり、古墳に並べられた埴輪にも鞍(くら)や鐙(あぶみ)などの馬具を装着した馬の埴輪が登場します。苫田ダム建設に伴う発掘調査では、久田原2号墳の石室から馬具の鐙と思われる金具が出土しました。七世紀代のものと思われます。県内では約一三〇基の古墳から馬具が見つかっていますが、六世紀代に急速に乗馬の風習が広がったようです。それでも当時は乗馬ができる立場の者は限られていたと思いますので、久田原2号墳の被葬者は久田地域ではリーダー的な地位にある者だったのかもしれません。
(2)土馬(どば)・陶馬(とうば)
奈良・平安時代の遺跡から出土する馬の形をした素焼きの土製品です。川や溝の近くで水甕(みずがめ)などと共に発見されますので、水に関わる祭祀に用いられたと考えられています。『続日本紀』には、日照りの時には黒馬、長雨の時には白馬を奉納したという記録があることから、水の神様に馬を捧げるという風習が、土製の馬に代用されていったのでしょう。野焼きで軟質の黄褐色のものを土馬、窯焼きで硬質の灰色のものを陶馬といいますが、用途の違いは定かではありません。もしかすると黒馬・白馬の違いを表しているのかもしれません。いずれも意図的に破壊された状態で出土することが特徴です。町内では、久田原遺跡や杉遺跡で出土しています。久田原遺跡の陶馬は、目鼻の表現もある写実的なもので、発掘調査で見つかった当時は山陽新聞の一面に掲載されました。
(3)馬場
小田地区にある馬場という地名は、この地区にある中世の山城・小田草(おだくさ)城にちなむものと言われています。「馬場」とは元々は乗馬の訓練や馬の調教などを行ったりする場所のことで、武士が住む城下町などに設置されていました。小田草城の馬場も城の東南の麓あたりにあったと言われています。小田草城は代々この地を支配していた斎藤氏の本拠地でしたので、斎藤氏の一族とその家来たちの乗馬の管理施設や訓練場が存在したのでしょう。
小田草城を含むこの一帯は、江戸時代には馬場村という村名になります。この地域に住む村人にとって、馬場の存在がいかに大きかったのかが想像できます。
(4)馬乗石
江戸時代、奥津温泉街は伯耆国へつながる倉吉街道の宿場町として整備されました。森家四代藩主・森長成(ながなり)は貞享三年(一六八六)に十六歳で家督を継ぎ、元禄七年(一六九四)七月と元禄十年(一六九七)二月の二度、奥津温泉に滞在して湯治した記録があります。長成は二度目の湯治から約四か月後に二十七歳の若さで亡くなっていますので、病気療養のための湯治だったのでしょう。長成が湯治のため滞在した場所は今も御殿屋敷という地名が残り、屋敷跡には長成が乗馬の際に踏み台にしたと伝わる馬乗石(町指定文化財)も残されています。
馬は活気と行動力を象徴する動物といわれます。この一年が活気と行動力に満ち、成功へとつながる年になることを願いたいです。
参考:『久田原遺跡・久田原古墳群』『奥津町史』『小田の文化誌』、古代吉備文化財センターHP
問合せ:鏡野町教育委員会 生涯学習課 日下
【電話】0868-54-0573
