文化 【シリーズ第187回】希運(いうん)上人の入定塚(にゅうじょうづか)

中谷の弘秀寺の東側、川と道路を挟んだ対岸の斜面に、「希運上人之塚」と刻まれた高さ一二五センチ、幅三五センチの自然石の石碑が建てられています。この碑には、次のような話が伝えられています。
昔のことです。それは享保十三年(一七二八)、中谷地方に大変悪い病気がはやり、次から次へと死んでいきました。このあわれな有様を見たここのお寺の和尚さんは自分が身代わりになって人々を助けようと決心し、墓穴を掘ってその中に入り、上から土をかけてもらい棺桶の中で、一心に仏様をおがみ、
「私の命をさしあげますから人々をお助け下さい」
と祈りました。そして穴からお寺の鐘まで糸を引いて、お祈りする度に糸を引いたのです。はじめのうちは鐘の音が糸を引くたびに糸の先につけたおもりが鐘を打ち、大きな音をたてていましたが、次第に音が小さくなっていきました。
それにつれて病人は一人、二人、三人とよくなっていきました。そしてその年の四月八日、ちょうどお寺で花まつりのある日、とうとう音が聞こえなくなりました。その頃は悪い病気はなくなり、一人も病人はおらなくなりました。それは、はじめ穴に入られて二一日目であったといわれています。人々はこの和尚さんのおかげと感謝し、相談してこの塚穴の上に石碑をたて、毎年四月八日には集まって和尚さんの霊に感謝しました。この和尚さんは希運上人(きうんしょうにん)で、今も中谷の弘秀寺の前、道の上に石碑が建っています。そしてお線香やお花が供えてあります
安藤武夫「鏡野の民話」-資料編-鏡野町研修所国語科班より

この伝説から、この石碑のある所は大円寺(現弘秀寺の以前の寺名)の寺僧であった希運上人が、疫病で苦しむ村人を救うために、自らの命を犠牲にして祈りを捧げた場所だったようです。
このような、僧侶や修験者が干ばつや疫病の時に地下に掘った穴の中や石で囲われた部屋などにこもって入口を封鎖し、お経を唱え続けたまま亡くなり村を救ったという話(入定(にゅうじょう)伝説)は各地にあり、こうした伝説をもつ墓地は入定塚や入定墓と呼ばれています。岡山県内でも三〇ヶ所くらい存在するといわれ、それぞれに「鈴や鉦の音、読経の声が聞こえなくなくなったら死んだと思ってくれ」とか「頭の病を治してやる」などの遺言が伝えられています。県北でも津山市や真庭市、美作市など各地に存在しています。
弘秀寺の過去帳には「四月八日ヨリ入定 土中に有ツテ存命 二十一日命了(おわ)ル 年六十七才 生仏(いきぼとけ)様ナリ」と追記されていますので、民話にある四月八日が命日ではなく、入定が八日で、十三日後の四月二十一日に亡くなったようです。寺に伝わる位牌にも同様の裏書があり、太田(大田)村(津山市大田)の出身であったことも書かれています。位牌は後世に新調されているようですが、おそらく過去にはそのような記録が残されていたのでしょう。
入定伝説は江戸時代の十七世紀後半から十八世紀前半頃に多くみられます。その背景には当時、飢饉や疫病、百姓一揆など人々を不安にさせる要素が頻発していたことがうかがわれます。
(過去帳および位牌は調査のため特別に拝観させていただきました。通常は非公開です。)
参考:『鏡野町史』『岡山県大百科事典』、木山デジタルミュージアムHP
協力:法華山弘秀寺

問合せ:鏡野町教育委員会 生涯学習課 日下
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