- 発行日 :
- 自治体名 : 山口県萩市
- 広報紙名 : 広報はぎ 2025年8月号
萩市×下田市姉妹都市提携50周年記念
連載企画第4回下田市から担当者がお届けします!~姉妹都市提携50周年記念交流事業~
吉田松陰先生が日本の行く末を憂(うれ)い、異国を見聞(けんぶん)すべく海外渡航を試みた地である下田。
今回は、松陰先生の下田での足跡について紹介させていただきます。
松陰らが下田に到着したのは嘉永7年(1854年)3月18日のことでした。幕吏の目を避けるため、松陰は「瓜中万二(かのうちまんじ)」、重輔は「市木公太(いちきこうた)」と変名し、岡村屋に宿をとりました。
20日、松陰が持病の皮膚病を発したため蓮台寺に向かい、同地で医師の村山行馬郎(むらやまぎょうまろう)の好意により3日間、村山邸(現吉田松陰寓寄処(ぐうきしょ))に滞在しました。
25日の夜、松陰らは稲生沢川から密航を試みましたが、高波のため断念し、柿崎弁天島の祠(ほこら)で夜を明かします。
27日の夜、再び密航を試みた2人は弁天島付近より小舟で沖に停泊する旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、通訳ウィリアムズに密航を懇願しましたが、日本の国禁に背くことはできない、と断られ米艦のボートで福浦に送り返されました。
28日、2人はいずれ事が露見すると考え、柿崎村名主の増田平右衛門(ますだへいえもん)に自首し、長命寺に一時拘禁されたのち、平滑の獄に収監され、4月11日に江戸伝馬町の獄に送られます。
踏海(とうかい)の試みは失敗に終わりましたが、のちに明治維新の原動力となる多くの逸材を生み出す契機の1つとなったことは、松陰が下田の獄中で詠んだ「世の人はよしあしごともいはばいへ賎が誠は神ぞ知るらん」※1の歌からも窺(うかが)い知ることができます。
※1 歌の意訳(海外渡航の企てについて)世間の人は、私のとった行動をよくないという人もいるだろうが、私の国を思う真心は、神だけが知っているだろう。
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