文化 [新]香美史探訪記

■第55回 物部町影仙頭の起源

専当とは、荘園が置かれた時、荘園主に代わって荘園経営や管理に当った役職のようで、大和大王家物部(もののべ)氏が大忍庄(おおさとのしょう)の経営を始めた頃、物部町影仙頭は、ここに本拠地が置かれたことを示す地名か専当の居住地のようである。注目しておくべきは、槇山(まさやま)を統治するに都合がよく、交通や村の散在の中心あたりと考えられる。南部の香我美町あたりにも、専当が置かれていたであろう。
物部氏は、大和大王家の祭祀と武闘集団を率いる大将らしく、西暦515年、朝鮮半島帯沙江で倭軍の物部連至至が大敗、とある(百済本紀・日本書紀)。西日本の平定や海外派兵にも物部氏が見え、多くの荘園を持っていたと言われ、その一つが「大忍庄」と考えられる。平安時代後期、京都の皇族、公家などが「熊野詣で」を盛んに行った頃、この荘園は熊野社に施入(せにゅう)され、県内の熊野神社や若一王子宮などは、この縁で祀られたもの。
弘安6年(1283)、得宗家北条時宗が槙山郷を鎌倉極楽寺栞谷(しおりだに)悲田院(※)に施入するとあって、蒙古襲来に神風の吹いた翌々年から鎌倉極楽寺領の時代もあった。
応永11年(1404)、槇山専当職小松沙弥善住に下知状(槇山専当家文書)が届き、将軍足利義満の頃、岡ノ内村から来た小松氏が専当職を務めている。
戦国時代の槇山衆を率いたのは、専当左衛門太夫安家で、天正3年(1575)11月、長宗我部軍の阿波攻めに約500人を率いて、木頭村で合戦をしている。
天正16年(1588)、専当ノ村は仙頭左衛門太夫四町一反八軒とあり、西川ノ村にも専当分が見えるから、西川専当が置かれていたろうか(地検帳)。
江戸時代になると、専当ノ村は小田々村と呼ばれたようで、「専当」の名称は庄屋に置き変えられたことから、「使うことまかりならん」との藩の御意向が感じられる。
専当が置かれたであろう影仙頭は、槇山郷の中心地であった時代が長い。この専当を姓としていた家は、元は物部氏であったであろう。仙頭家はこの一族と考えられる。また、韮生郷の千頭(ちかみ)姓も、この一族であった可能性がある。
(香美市文化財保護審議会・岡村)

※悲田院とは、飢饉や災害、伝染病などで困窮した者を収容したという、社会福祉の施設。