- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県行橋市
- 広報紙名 : 広報ゆくはし 令和7年6月号
市制70周年を迎えた行橋市。山や海に囲まれ、京築地域の中核として人が行き交い、歴史と文化が育まれてきました。昔懐かしい行橋の風景や町なみの、「今」と「昔」をご覧ください。
◆Vol.024 新国道の建設
行橋市は九州北東部の交通の結節点で、北九州市門司区から大分県、宮崎県を経由して鹿児島市へといたる国道10号が市内を縦貫し、国道10号の二崎交差点(苅田町)を起点に市内の北側を横断し、筑豊地域を経由して、福岡市東区へといたる国道201号。そして、国道201号の草野交差点を起点に市内中心部の安川通りから泉校区を抜け、祓川に沿ってみやこ町を南下、英彦山麓の野峠より大分県中津市山国町を経由し、日田市へといたる国道496号(大分県域は国道212号、500号と重複)の3本の国道が通っています。
今回は東九州の大動脈である国道10号の今昔を見ていきましょう。
◇完成した新国道 1933年/昭和8年
大正14年(1925)、行橋町第5代町長、徳田伊勢次郎が中心となり、行橋駅東側に碁盤目状の市街地が形成されました。そのすぐ東を縦貫する中津街道(国道三等)は、小倉城下と中津城下とを結ぶ江戸時代以来の地域の主要道路でしたが、昭和初期には人の往来に加え人力車、荷車や当時「乗合自動車」と呼ばれたバス・タクシーが行きかうことで手狭となったため、新国道の建設が昭和7年(1932)7月15日に起工。ちょうど1年後の昭和8年7月15日に、北は行橋町と小波瀬村境より南は泉村羽根木までの総延長3.7kmが完成しました。
(本紙写真)現在の行橋税務署前付近から南の今川に架かる豊国橋方面を眺めた古写真。今川の土手に向かって若干上り勾配になっているのがよく分かる。当時の国道周辺には店や人家はなく、田んぼが広がっていた。
◇現在の県道28号(旧国道10号) 2025年/令和7年
戦後、昭和30年(1955)より高度経済成長期を迎え、国道を起点とする新たな街並みが形成されていきます。成長期の真っ只中であった昭和40年(1965)頃には、豊かさや憧れの象徴「三種の神器」の1つとして、一家に一台の自家用車が渇望され、自家用車が急速に普及。昭和50年代以降は、市中心部における国道10号の渋滞は社会問題の1つとなりました。
このことより、国道10号バイパスの建設が計画され、平成3年(1991)8月、二崎から辻垣まで5.4kmの国道10号行橋バイパスが開通。これにより、国道10号の二崎-行事間は国道201号、行事-辻垣間が福岡県道28号となりました。
(本紙写真)行橋市の中心部を通る福岡県道28号の現在の様子。片側1車線で、車道幅10.5m、歩道幅2.5mと昭和8年の建設当時とほとんど変わっていないが、アスファルト舗装され、景観は一変している。
新たな道路をつくることは、用地の選定、買収、そして敷設工事と大変な土木事業であり、ましてや昭和初期における国道の建設は、昨今の東九州自動車道の開通と同じくらいのインパクトがあったでしょう。そして、それを維持・管理・更新していくことは将来に渡って続きます。また、道路に限らず鉄道や上下水道など社会インフラの保全は、現在大きな社会問題となっており、私たちにも社会インフラに対する理解を深めていくことが求められているといえるでしょう。