- 発行日 :
- 自治体名 : 佐賀県鳥栖市
- 広報紙名 : 市報とす 令和7年5月号
■「勝尾城(かつのおじょう)を知る」第14話 ―鏡城の戦いと村田八幡―
永禄(えいろく)2年(1559年)9月、鏡城(かがみじょう)(牛原町)で戦闘がおきます。
鏡城に籠るのは、筑紫真清(さねきよ)で、前当主筑紫惟門(これかど)の兄とされ筑後草野氏(久留米市発心城主(ほっしんじょうしゅ))の養子となったとされる人物です。真清は惟門の息子である仁九市(にくいち)(後の広門(ひろかど))を連れ出し、宮浦城(基山町)を拠点に実権を握ろうとしました。
しかし、筑紫長門入道(ながとにゅうどう)らに攻められ宮浦城は落城、仁九市の身柄は長門入道によって保護されました。真清は、再起をかけて勝尾城の目と鼻の先にある鏡城に入ります。長門入道はすぐさま鏡城を包囲します。後世の記録によると、この時「田代・宿・貝方(河内町)の三方向から攻め込んで落城させた」と記されています。
この一連の戦いのことを、筑紫家から大友家の家臣である田尻親種(たじりちかたね)(柳川市鷹尾城主)宛てに「真清と戦闘になったが、筑紫家の内紛であって、大友家への敵意は無い」と述べる書状が複数残っています。主導権を握った長門入道らはその後、侍島合戦で戦った大友家との関係を修復するのに奔走していたことがうかがえます。
そして永禄3年2月、大友義鎮(よししげ)(宗麟)は、筑紫長門入道に対して「真清との戦闘について不問」とする旨の書状を発行しました。これにより大友家は長門入道らを仁九市の後見人と認めたのです。真清は名実ともに敗北しました。
真清は養子先である草野へ逃れたと伝わりますが、詳しいことは分かっていません。
ところが、平成3年(1991年)、村田八幡神社の補修工事に際し、御神像の底面に『永禄3年願主(がんしゅ)筑紫眞清(ちくしさねきよ)』の墨書銘(ぼくしょめい)が確認されました。鏡城の戦いの後も、真清の影響力が鳥栖市域に残っていたことが分かります。
(鳥栖市誌第3巻第3章第3節より)
■「鳥栖市誌」発売中
「鳥栖市誌」は、市教育委員会生涯学習課、油屋本店、古賀書店などで取り扱っています。詳しくは、同課【電話】0942-85-3695へ。