- 発行日 :
- 自治体名 : 熊本県宇土市
- 広報紙名 : 広報うと 令和8年1月号
■五つの石棺を持つ古墳
古墳とは、地域の有力者(豪族(ごうぞく))のために築かれた、巨大な墳丘(ふんきゅう)を持つお墓です。天皇陵(てんのうりょう)をはじめ、一部の古墳については被葬者の名前が推定されていることもあり、古墳に対し「特定個人の墓」というイメージを持つ方は多いのではないでしょうか。
しかし、実際には一つの古墳から複数の埋葬施設(石室(せきしつ)・木棺(もっかん)・石棺(せっかん)など)や埋葬人骨などが発見された例が全国に数多く存在し、古墳が必ずしも一人だけを埋葬するものではないことがわかっています。そのあり方は多様で、墳丘内に複数の埋葬施設を持つものや、一つの石室・石棺に複数の人間を葬ったものなどがあります。
例えば、宇土産の馬門石(まかどいし)で作られた石棺が発見されたことでも知られる奈良県の植山(うえやま)古墳は、一つの墳丘に二つの横穴式石室(よこあなしきせきしつ)が造られており、推古天皇(すいこてんのう)と竹田皇子(たけだのみこ)の合葬陵(がっそうりょう)と推定されています。また、仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)として有名な大阪府の大山(だいせん)(大仙)古墳では、前方部で竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)と石棺が発見されていますが、通常、前方後円墳の中心的な埋葬施設は後円部にあることから、少なくとももうひとつ埋葬施設が存在する可能性が考えられます。
このような、複数の人を埋葬した古墳は宇土市内にもあります。代表的なものが、墳丘上から合計五つの埋葬施設が発見された花園台町の楢崎古墳(ならざきこふん)です。
楢崎古墳は、全長46mの前方後円墳です(※1)。墳丘中心の最も高い位置に4基、少し外れた低い位置に1基、合計5基の埋葬施設が発見されています。便宜上、埋葬施設は南から順に1号~5号と呼ばれ、1号・3号は家形石棺(いえがたせっかん)、2号は舟形石棺(ふながたせっかん)、4号は長方形に掘り込んだ穴に石の蓋(ふた)をのせた石蓋土壙(いしぶたどこう)、5号は板状の石材を組み合わせた箱形石棺(はこがたせっかん)と呼ばれるものです。うち1~4号はほぼ等間隔に配置され、石棺の形状などから推定される埋葬順は2号→3号→1号→4号となります。古墳自体の築造時期は、最も古い2号石棺を手がかりに、およそ5世紀後半から末と考えられます。その後、6世紀にかけて追葬(ついそう)(※2)が行われたとみられます。
宇土周辺では、およそ4世紀には多くの前方後円墳が造られますが、5世紀になるとその数が大きく減ります。その中で、楢崎古墳は希少な5世紀代の古墳と言えますが、それでも全長46mというその規模は決して大きな部類ではなく、この時代、周辺を治めた勢力が弱体化していた可能性があります。また、石棺に使われた石材は、宇土市網引町(あびきまち)付近で採取したとみられる灰白色の凝灰岩ですが、近畿地方など遠方まで運ばれたことで知られるピンク色の凝灰岩「馬門石」とは、採掘場所が明確に異なる点に大きな特徴があります。楢崎古墳に限らず、宇土周辺でピンク色の馬門石で作られた石棺はひとつも発見されていないことから、当時、石材の使用に関して何らかの規制があった可能性があります。
このように、楢崎古墳は当時の社会を考える上で重要な情報を多く含んでおり、特に、少しずつ特徴の異なる5基の埋葬施設は、時代ごとの変化などを知る大変貴重な資料です。
楢崎古墳は昭和50年に熊本県の史跡に指定され、埋葬施設は覆屋(おおいや)で保護されています。覆屋の鍵は宇土市教育委員会文化課で管理しており、事前に連絡をすれば中に入って石棺を間近で見学することができます
※1 後円部に対し前方部が極端に小さい「帆立貝形(ほたてがいがた)前方後円墳」や円墳とみる考え方もあるが、正式に定まっていない。
※2 お墓に後から追加で埋葬すること。
問合せ:文化課 文化係
【電話】23-0156
