文化 「絆」でつなぐ豊後大たいまつ40周年(1)

940年以上前の平安時代に豊作を感謝して始まったと言われる「若宮八幡神社秋季大祭・裸祭り」は、陸組と川組による勇壮な御神輿の巡幸、弓道連盟により火矢で点火された大たいまつの炎、特設ステージの太鼓演奏など、市内外から多くの方に親しまれています。
そんなお祭りに欠かせないものの1つ「豊後大たいまつ」が、今年40周年の節目を迎えます。

■豊後大たいまつ
「豊後大たいまつ」は、市内の有志で組織する「豊後大たいまつ実行委員会」の皆さんが、毎年、手作りで作り上げています。
お祭りに向けて河川敷で作業に取り組む姿はお馴染みのもので、お祭りの前に立ち上げられた「大たいまつ」は、お祭りが近いことを知らせてくれます。

■大たいまつの歴史と今後
そんな「豊後大たいまつ」の歴史、製作過程をご紹介するとともに、初代豊後大たいまつ製作代表者の阿部彰さんと現実行委員長の河野申哉さんに、大たいまつの始まりと、会員の絆で繋いできた取り組みの歴史、そして、今後についてのお話を伺いました。

■「豊後大たいまつ」の歴史
昭和60年:豊後高田商工会議所青年部会が、長さ約10mのたいまつ(翌年のリハーサル)を製作。
昭和61年:初代の豊後大たいまつ(全長約15m)を製作。
平成5年:大たいまつを「お下り用」と「お上り用」の2本製作へ。(前年までは、お上り用で1本のみ製作)
平成13年:「豊後大たいまつ実行委員会」を結成。この年から同委員会が実施主体となる。
令和4年:大たいまつの中心を鉄骨化してリニューアル(全長約16m)し、現在の姿に。

■「豊後大たいまつ」ができるまで 製作過程
(1)作業前に、若宮八幡神社で作業の安全を祈願。
(2)孟宗竹を竹割機で4分割にする。
(3)支柱の周りに、(2)で割った孟宗竹を紐で結び付ける。
(4)番線(太い針金)でしっかり巻き付けて、たいまつ下部を完成させる。
(5)頭頂部分の中心に孟宗竹・メダケなどを入れる。
(6)中心に入れた竹に再度メダケ・孟宗竹を巻き、番線で固定する。
(7)(6)に若宮八幡神社で祈願した「願い札」を取り付ける。
(8)(7)の周りを藁を巻きつけ、最後にしめ縄を付けて完成。(頭頂部分は2本作成)
(9)クレーンで設置する。

■初代・豊後大たいまつ代表
初代豊後大たいまつ製作代表(当時の豊後高田商工会議所青年部会部会長)阿部彰さん

▽40周年を迎えた気持ち
本当によく続いたなあという想いです。関係者の皆さまには本当に感謝しています。

▽豊後大たいまつ作りのきっかけ
当時、商工会議所青年部会の全国大会が松江市であって、そこで宍道湖に世界一のしかけ花火があるとの話を聞いた青年部会のメンバーが「高田には修正鬼会のたいまつがあるから、世界一の大たいまつを作ってみないか」と青年部会で提案しました。
初めは乗り気でなかったメンバーでしたが、その後すぐに設計図や模型を作ってきたメンバーがいて、できた模型などを見て、これならできそうだという話になったのが始まりです。

▽挑戦を始めたときの気持ち
やっぱり町を盛り上げようという気持ちですね。その想いは、その後も続いて、昭和の町の誕生やミゼットの復活などにも続いていると思っています。

▽大変だった初製作と仲間との絆
最初は材料を集めるのが大変でした。どのくらい必要かわからんので、9月くらいから集めたと思います。
その材料での初めての大たいまつ作りは、前例がない中でみんなで知恵を出し合い、ミゼットのホイールを2つに割って、そのホイールの穴の中に長さを決めた竹を入れて束にするなど、皆で工夫して作りました。
当時は、10月から一カ月くらいかけて、毎晩集まって作り上げました。やはり、青年部会は、誰かが手を挙げれば、みんなついてくるというような関係がありましたね。

▽初代大たいまつが点火した時の想いとギネスブックへの挑戦
当日は弓道連盟にお願いして、火矢を放ってもらったのですが、風が強くて、火矢がなかなか点かず、やっと点火したときは、みんな感動して、涙を流していました。
また、大たいまつはギネスブックにも挑戦したんですが、「たいまつ」という種類がないということで、残念ながら却下されてしまいました。

▽これからに向けて
やっぱり心配なのは参加する人が減っていることです。当時は青年部会だけで60人くらいいたので、もし、参加してくれる人がいるなら、ぜひ、続けていって欲しいと思います。