文化 ふるさとの文化財探訪 第139回

『飯田高原における野焼き文化』

文化財調査員 清水 武則

桜一千本を植える「花咲かじいじ in 九重」プロジェクトを地元の人々のご協力を得て進めており、今年春に野焼きを実施した。そして、去る10月には輪地(ワチ)と言われる防火線部分の野焼きをやっていただいた。そうすることで、来年、より安全な野焼きが可能とのことであった。桜植樹地は立石遺跡と呼ばれる場所の丘陵部分で九重連山を眺められる絶景地点であり、山頂にある立石には「何か」を感じる方も多い。子供の頃やっていた野焼きを60年ぶりにやり、「野焼き」に関心を持ち調べてみた。ここは、黒土なのだが、60センチも掘ると下は赤土である。実は飯田高原全体が黒土で覆われている。私は、それが火山灰のせいだと思っていた。が、阿蘇から九重にいたる広範な地域の土壌調査をしたことがあった別府大学前学長の飯沼賢司先生によれば、この地域のクロボクは火山性というよりも長い間にわたる火入れ、即ち野焼きによるススキやササなどの微粒炭であり、その形成期は縄文時代に遡るとのことであった。つまり、1万年以上前からこの地域に住む縄文人によって野焼きが行われていたということだ。立石遺跡も縄文末期から弥生早期と推定されているが、九重町には縄文時代の遺跡は沢山あり、その時代の人がすでに野焼きをやっていたことになる。
九重町の広報資料で九重町の特徴を「春は黒、夏は青、秋は赤、冬は白」と紹介している。原典は1770年に書かれた法華院に伝わる「九重山記」という覚書(芳梅聞著)にある。「春は黒」の「黒」は勿論、野焼きの黒であり、かつては大分県、熊本県の50万町歩で野焼きが行われていたそうだ。飯田の野焼きは昭和40年代に中止されたが、九重の自然を守る会が各所に呼びかけ、1976年に「飯田高原野焼き実行委員会」が結成され、以来、今日に至るまで継続され、飯田高原の景観維持に貢献している。
田野北方に寛政3年(1791)から明治2年(1869)まで生きた甲斐市左衛門という人がいる。彼は、古代から江戸年間までの田野村で起こった様々な事件をまとめており「田野村古伝集」として九重町教育委員会より報告書が出されている。これによると、慶長9年(1604)に「春、野火により白鳥大明神焼失、宝物記録失う」とあり、また、正徳5年(1715)にも、「春、北方部落内の野焼きの火にて白鳥大明神焼失」と書かれている。北方部落で野焼きがこの時代から行われていたことが文書で確認できる。このように野焼きは九重に住む人々に受け継がれてきた貴重な文化であるが、高齢化が進む中、これをどのように維持継続させるか、その方途を一層真剣に考えるべき時代になっている。