文化 資料館だより(537号)

■塩釜神社のルーツ
種子島には島外から伝わってきた文化や郷土芸能などがたくさん残されています。
増田郡原集落内にある塩釜神社もそのひとつで、初代島主(信基)が種子島を統治する時に塩戸(塩作り)が必要であると考え島内各地で塩作りを始めました。増田の小塩屋では愛媛県宇和島沖の小島で塩戸をしていた人々が移り住み製塩方法を教えていたそうです。
小塩屋伝説によると、第十代幡時公は塩戸の人々のことを気遣い、四国の小島から神をお迎えして小塩屋に塩釜神社を建立し、幡時公が作詞、作曲したと言われる御神楽も伝えられています。氏子の方が「宇和島沖の小島」とはどこか、御神楽の歌詞の二番に出てくる「明子(あこ)の浜から舟に乗り漕ぎ出でて…」を手掛かりにそのルーツを調べています。宇和島周辺の古地図に「明子」という地名は見つからなかったものの、宇和島沖に浮かぶ日振島に「明海」と記され、ローマ字で「AKO」と書かれた地名があるのを見つけたのです。日振島は四国と九州に挟まれた豊後水道の中ほどにあり、古くから海上交通の要衝で、幡時公も潮待ちや風待ちなどの際に立ち寄り瀬戸内海を行き来していたと考えられます。この周辺では塩戸も盛んに行われており、日振島をはじめ周辺の島々では今でも御神楽が舞われていることも分かりました。本来「明海(あこ)」であったものが言い伝えられているうちに「明子」と伝えられたと考えられ、小塩屋に塩作りの指導に来て定住した人たちは、日振島の人だったと考えられます。日頃何気なく見ているものも、そのルーツを調べてみると新たな発見があるかもしれません。
町文化財保護審議員 深田 和幸