- 発行日 :
- 自治体名 : 沖縄県南風原町
- 広報紙名 : 広報はえばる 令和7年4月号
■終戦80年特集(2) 南風原に配備された日本軍
海に接しない交通の要という地理的特徴により、南風原には、主に日本軍の後方支援部隊(戦いを支援する部隊)が配備されています。逆に海に近い他の地域では、米軍上陸後戦闘が始まることを想定して主に戦闘部隊が配備されていました。
南風原に配備された後方支援部隊の代表的な例には、十・十空襲で被害を受けて那覇から南風原国民学校へ移ってきた「沖縄陸軍病院」、喜屋武付近に部隊本部を置いた「第32軍野戦兵器廠(しょう)(兵器・弾薬などの管理・補給などが任務)」、津嘉山に部隊本部を置いた「第32軍野戦貨物廠(食料や被服など軍需品の管理・補給などが任務)」、山川に拠点を置いた「独立自動車第259中隊(輸送作業が任務)」などがいます。
また戦闘部隊の例には、沖縄にいた唯一の戦車部隊である「戦車第27連隊」の本部が宮城に置かれ、周辺の大名や与那覇などにも戦車部隊が配備されました。また神里には大砲を発射する「野戦重砲兵第23連隊」の一部が配備されていました。
そして、沖縄戦を指揮した第32軍の司令部壕として、津嘉山の高津嘉山・チカシモーと呼ばれる丘陵に巨大な壕が造られていました。第32軍の司令部壕といえば、首里城周辺の地下に造られたものが有名ですが、元々は津嘉山で工事が進められていました。
しかし、十・十空襲で米軍のすさまじい攻撃を受け、泥岩層(クチャ)が主な岩盤である津嘉山に造られた壕は耐久性に問題があると考えられました。また、標高(87m)が低いため地上戦の際に見通しが悪いという問題もありました。その結果、新たに首里城周辺に司令部壕を造ることになりました。
最終的に、首里城周辺の地下に造られた司令部壕は、牛島司令官など戦闘に関わる部隊が使用し、津嘉山の司令部壕は、後方支援部隊が使用しています。
以上のように、南風原では日本軍の配備が進められました。また、第32軍は不足する兵力を補うため、徴兵・防衛召集・学徒動員など、「根こそぎ動員」をおこない沖縄戦に備えました。(保久盛)
◎第32軍司令部津嘉山壕群の略図
※詳細は広報紙11ページをご覧ください。
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