文化 戦後80 年のあゆみ

日本の終戦から今年で80年が経過します。戦時から現在までの間、私たちの暮らしに大きく影響を与えた出来事などを歴史資料などから振り返ります。

■第1回 講和条約と北海道平和博覧会
昭和6年9月の満州事変から昭和20年8月に終わるアジア・太平洋戦争までの十五年戦争に出征した兵士の戦没者は、岩見沢、北村、栗沢で1,300人を超えました。空襲などの戦火がなかった岩見沢の市街地は大きな被害を受けず、昭和15年に岩見沢、北村、栗沢を合わせて58,000人だった人口は、昭和25年には81,000人に増加しました。経済情勢が安定し、野球などの娯楽を楽しめるようになりはじめたことから、昭和25年9月に市は、開村65周年を記念し特産物の展示や家畜品評会、歌謡大会などを盛り込んだ市民祭りを開催し、産炭地からも多くの参加者を集めました。また、商店街からの要望に応じ〝鈴蘭(すずらん)灯〟を設置するなど、美観整備が進みました。
日本は、昭和26年9月にソ連や中国を除いた、アメリカなど48カ国との間で主権の承認、領土や安全保障などを定めた講和条約を締結し、これを機に日本人としての歴史や文化を理解する機運が高まりました。同年10月、世界憲法制定会議の日本代表の一人としてパリに向かった当時の市長山本市英(いちえい)は「世界平和確立へ意気に燃え」と職員に祝福され、3カ月の旅程で欧米の他都市も視察しました。
講和条約の発効を記念した北海道平和博覧会は、昭和27年7月から8月にかけて岩見沢市、帯広市、富良野町の持ち回りで開催されました。岩見沢市では岩見沢小学校と中央小学校を会場に、日本の歴史文化、鉱業や電気通信、豆機関車、漫才や歌謡のほか、戦時下から日本詩壇の同人として活躍していた奥保(おくたもつ)作詞の〝平和博音頭〟の発表会も行われました。また、翌年に放映開始が予定されていたNHKテレビジョンが公開され人気を集めました。
会場に展示された〝岩見沢パノラマ〟には、ダムや発電所のほか石狩川の大橋、原野の客土や灌漑(かんがい)排水工事など、その後に予想された大規模事業が紹介され、石炭や電力などの産業資源を背景に発展する未来都市が描かれました。予想を超える成果と言われた平和博覧会に関して、当時の市の広報紙は〝岩見沢市の将来に前途洋々たるものを感じて誠に力強き極み〟と伝えました。

問合先:庶務課市史資料室(北村支所内)
【電話】56-2001