文化 [特集]戦後80年企画 対岸から樺太を見つめて

■第1回 恵須取編
令和7年は太平洋戦争の終結から80年を迎えます。稚内市の対岸に広がる旧樺太では、終戦間際に当時のソ連軍が進攻し、多くの人々が戦火に追われ、命からがら稚内へと引き揚げてきました。その背景には、家族を失い、故郷を奪われた人々の深い悲しみと苦しみがありました。あの時、何が起こったのか。私たちはその記憶をどう未来へ伝えていくべきか。第1回目は恵須取町で起こった出来事について、小林侃四郎(かんしろう)さんと片山きみゑさんの証言を紹介します。戦争の悲惨さ、故郷を追われた切なさ、そして命をつないだ想いに耳を傾けてください。

◆景気が良かった樺太
小林さんは昭和11年、樺太北部、西海岸の恵須取で生まれました。
「恵須取は山があって浜もあって、稚内と似たような地形。夏になれば海で泳いで、カニや海藻を捕りました。炭鉱があったし、林業も盛んだったので出稼ぎの方も多かった。多くが家族で移住しているので、子どももたくさんいて、とても賑やかでした。」
片山さんは樺太へ出稼ぎしていた父親に呼ばれ、青森から移住。恵須取・太平炭鉱病院で看護師として働いていました。
「炭鉱は景気が良かったです。勢いのある町だった気がします。」
資源が豊富で活気があった樺太。そんな日々が一変したのは、昭和20年8月9日。ソ連軍が国境を越えて日本領に侵攻してきたのです。国境、そして海に近い恵須取の町は真っ先に火の海となりました。

◆死の内恵道路越え
「片足に下駄、もう片方に長靴を履いて逃げました。恵須取にはまだ鉄道が通っていなかったので、駅のある東側の内路町まで、歩くことにしました。」
そう語る小林さん。逃げている途中、何度もソ連機が襲来し、避難民に機銃掃射を浴びせました。命の危険と隣り合わせの逃避行だったそうです。
「戦闘機が来るたびに、何度も地べたに這いつくばりました。気が付くと隣の人が撃たれて倒れ、馬も横たわっていました。まさに血の海です。親に手を引かれ、無我夢中で逃げました。日中は身を隠しながら真夜中に歩き、数日かけてようやく駅のある内路に着きました。そこで汽車に乗り、引揚船の待つ、大泊へ向かいました。」
小林さんが歩いた道は、多くの避難民が亡くなったことから「死の内恵道路」と呼ばれています。

◆看護師たちの自決
一方、その頃、片山さんは、患者の看護のため避難できずにいました。手術の対応をしていた時、ソ連機の空襲にあったといいます。
「手術で血が流れている床に目を閉じて伏せました。爆弾を落とされたら、それでも助かるわけないのにね。患者を防空壕に避難させ、自分たちも逃げました。患者を置いていくのは後ろ髪を引かれるような気持ちでした。」
8月16日の夕方、片山さんを含めた20数名の看護師は避難を始めました。しかし、女性だけで山を超える不安、ソ連軍が逃げ道を塞いでいるといった不確かな情報が、疲れ果てた看護師たちを追い詰めていきます。
「避難するには山を越えなければならないのに、足が前に出ないんです。怖くて、疲れて、死んでもいいという感じ。あの経験は今でも忘れられない。「武道沢」という場所にたどり着いたとき、これ以上、逃げることができないと判断しました。」
武道沢には、大きなニレの木が一本立っていました。看護師たちは、そこを人生最後の場所とする決意をしました。
「私たちは避難する前から、自決する覚悟を持っていました。睡眠薬と青酸カリを持って逃げたんですけど、途中、どこかで薬を落としてしまった。残った薬では全員分の致死量がなかったので、睡眠薬をみんなで分けて、手首を切り合いました。私は三か所。切った時、2センチぐらい血が飛び出ました。眠ったまま死にたかったけれど、朝、目が覚めてしまいました。樺太では珍しいぐらい太陽が煌々と照っていました。生きていて、どうしようと思いました。」
片山さんは武道沢近くにある事業所に保護され、そこで6名の同僚看護師が亡くなったことを知りました。

◆その後の人生
内路から汽車に乗った小林一家は、途中、樺太最大都市、豊原に着きました。そこで一家は下車せず、大泊まで向かいます。
「私たちが豊原の駅を過ぎた後、そこに爆弾が落とされたと聞きました。あの時、親父は降りずに大泊へ行く決断をした。これが運命なんだと思っています。」
その後、小林さんは稚内で餅店を営みながら、市議会議長も務めるなど、市政発展に尽力されました。そして、稚内カラフト会の会長として長く語り部活動を行い、令和3年にご逝去されました。
片山さんは稚内に引き揚げてからも市立稚内病院で看護師として働き、市民の健康や命を守ってきました。片山さんは最後に、「辛い記憶なので、あまり思い出したくなかったんです。」と小さな声で話していました。

[出典]
図1 稚内市立図書館所蔵
図2 「南樺太全図」発行全国樺太連盟
図3 恵須取写真帳(北海道恵須取会)より引用
図4 斉藤マサヨシさん提供
※詳細は本誌P.2をご覧ください。

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