文化 戦後80年企画 対岸から樺太を見つめて

《第5回大鵬の上陸編》
令和7年は太平洋戦争の終結から80年を迎えます。稚内市の対岸に望む旧樺太では、終戦間際に当時のソ連軍が進攻し、多くの人々が戦火に追われ、命からがら稚内へと引き揚げてきました。そこには、家族を失い、故郷を奪われた人々の深い悲しみと苦しみがありました。あの時、何が起こったのか。私たちはその記憶をどう未来へ伝えていくべきか。第5回目は樺太引揚船が留萌沖で撃沈され多くの方が亡くなった三船遭難事件と、昭和の大横綱大鵬幸喜(たいほうこうき)さんの物語を紹介します。戦争の悲惨さ、故郷を追われた切なさ、そして命をつないだ想いに耳を傾けてください。

■北防波堤ドームに建つ碑
終戦まで、稚内港北防波堤ドームは樺太航路の発着地として、多くの方々に利用されていました。
ドームの横に建つ、ひと際目立つ大きな黒御影石の碑「大鵬幸喜上陸の地記念碑」。昭和の大横綱大鵬が描かれており、大鵬生誕80年の令和2年に建立されました。建立の中心人物の仲村房次郎(なかむらふさじろう)さんは、生前の大鵬との親交が深い方です。
「私の会社の従業員に、小4で120キロぐらいの体格のいい息子さんがいてね。その子を大鵬親方がスカウトしたのがきっかけでした。私も東京の大鵬部屋にその子の様子を何度も見に行きましたし、親方もよく稚内に来てくれました。親方は食事をしながら、自分の幼少期の話しをよくしていましたよ。」
記念碑の刻まれた碑文にはこう書かれています。『ここ稚内で降りたことで今の自分がある。横綱になれたのも稚内が原点』
「樺太出身の親方は、終戦直後、小笠原丸という船に乗って引き揚げてきたそうです。その船が留萌沖でソ連の潜水艦の攻撃で沈没してしまったそうです。」

■樺太で幼少期を過ごす
大鵬は、父・ボリシコ・マリキャン、母・納谷キヨの末っ子として樺太の北東部の敷香町で生まれました。敷香はソ連との国境から近い場所にあり、一家は郊外で牧場を営んでいました。
「樺太にいる頃は裕福で、とてもいい時代だったそうです。しかし、終戦近くになるとソ連軍が北から攻めてきたから、すぐに汽車で港のある大泊に逃げて、そして引揚船に乗った。そこで一回目の話しが終わりました。」

■引揚船の出港そして沈没
父を樺太へ残し、大鵬一家は母・キヨの実家、北海道神恵内村へ引き揚げるため、逓信省ケーブル敷設艦「小笠原丸」に乗船しました。
8月20日深夜、女性や子ども、高齢者を中心に約1千500人の引揚者を乗せた小笠原丸は神恵内に近い小樽へ向け出港します。小笠原丸が出港した日の宗谷海峡は波が高く、引揚者の多くは船酔いに悩まされたといいます。母・キヨもその一人でした。
小笠原丸の出港後、「第二新興丸」と「泰東丸」も引揚者を乗せ、小樽へ向けて出港しました。
しかし、8月22日の朝、三船は次々とソ連の潜水艦の攻撃を受けます。小笠原丸と泰東丸は沈没、第二新興丸は大破しながらもなんとか留萌港へ入港しました。その時の留萌沖の海上には無数の遺体が漂っていたほか、海に流され行方不明になった遭難者もいました。

■奇跡の下船
三船のうち、小笠原丸だけは小樽へ向かう前に、稚内に寄港していました。
「親方と次にあった時、話しの続きをしてくれました。母親の船酔いがあまりにも激しくて、そんな中で稚内に着いたので、とにかく降りようという判断をした。だから親方は『俺は母さんと稚内で降りたから、今があるんだ。それを知ってもらいたいんだ。』と何回も言っていましたよ。」
小笠原丸の乗客には小樽に向かった方も多く、死者、行方不明者は約700人にもなります。また、三船全体では1千700人以上と言われています。
「母の具合が悪かったとしても、神恵内に帰るには小樽まで乗った方が良いに違いない。だから、運が良かったといえば亡くなった人には申し訳ない話だけれど、稚内で降りたことには何か意味があるんでしょう。それを亡くなる前まで、私に訴えていました。」
大鵬は昭和31年に角界入りし、昭和36年に横綱に昇進。昭和46年に惜しまれつつ引退し、そして平成25年に72歳でその生涯を閉じました。大鵬の32回という優勝回数は、平成27年1月まで歴代最多を誇りました

■記念碑の建立を祝う
令和4年、大鵬の孫である王鵬(おうほう)関をはじめとするご家族や所属する大嶽(おおたけ)部屋の皆さんが来訪し、記念碑建立関係者の皆さんとともに、記念碑の完成祝賀会が開催されました。
祝賀会で大鵬の三女・美絵子さんは「父は、家族に相撲のことはあまり話さなかったのですが、稚内で下船したという幼少期の話はよくしてくれました。父だけでなく納谷家にとっても稚内は縁のある場所。記念碑ができたことに感慨深さがあります。」と話します。

■稚内で降りて今がある
また、美絵子さんは懐かしそうに「稚内に来ると海岸線に車を止めて、海の向こうのサハリンの島影を眺めていた父の姿を思い出します。」とも語りました。
昭和の大横綱大鵬幸喜。彼の「稚内で降りて今がある」という言葉は、戦争の中で失われた多くの命と、その中で紡がれた命の重さを、私たちに語りかけています。