その他 語り継ごう平和の尊さを(1)
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- 発行日 :
- 自治体名 : 山形県山形市
- 広報紙名 : 広報やまがた 令和7年7月15日号
わが国では、今年戦後80年を迎えます。私たちの今の社会が、国内外の多くの犠牲の上に成り立っていることを考えると「戦争」は決して忘れてはならない出来事です。
戦後80年がたち、戦争を経験し当時を語り継ぐ人が少なくなっています。悲劇を二度と繰り返さないために、戦争の悲惨さや当時平和を強く願った人々の思いを後世に語り継いでいくことは、現在を生きる私たちの使命です。この夏、戦争当時の様子を想像し、平和について考えてみませんか。
ー1898ー
▽山形市を拠点とした部隊 歩兵第三十二連隊
今は桜の名所になっている霞城公園にはかつて、歩兵第三十二連隊の本部が設置されました。歩兵第三十二連隊は山形の郷土部隊で別名霞城連隊と呼ばれ、多くの山形県出身者が入隊。1898(明治31)年3月24日に軍旗を拝受し、多くの隊員が日露戦争、満州事変、太平洋戦争などの戦地へ向かいました。
ー1944ー
▽激戦地 沖縄へ
太平洋戦争が激化すると、歩兵第三十二連隊の主力は沖縄への転進が命じられました。
それまで満州にいた歩兵第三十二連隊は、釜山(プサン)、下関へと移動し、主力部隊は輸送船「対馬丸」に乗船し、沖縄へ上陸しました。上陸後は沖縄戦に備え、沖縄県民も動員し陣地を構築。モグラのように地下壕(ごう)を掘り、沖縄特有の猛毒を持つハブの被害に遭いながらも「新戦場こそ墓場であり、われわれこそ日本本土の防波堤となって祖国を護(まも)るんだと一大決意を固め覚悟を決めていた」そうです。
〈対馬丸事件〉
「対馬丸」は、1944(昭和19)年8月5日に歩兵第三十二連隊を沖縄に上陸させてから上海へ急航。他の部隊を乗せ、那覇港に入港した後、8月21日に学童集団疎開の子どもたちをたくさん乗せて那覇港を出港しました。しかし、海はすでに戦場で、8月22日午後10時過ぎ、米軍の魚雷攻撃に遭い沈没。乗船者1788人(船員・兵員含む)のうち約8割が海底へと消えてしまいました。
ー1945ー
▽沖縄戦 鉄の暴風
1945(昭和20)年の3月末からの約90日間に繰り広げられた沖縄戦。犠牲者は20万人以上といわれています。沖縄の住民も多く巻き込まれました。米軍は物量作戦によって、空襲や艦砲射撃を無差別に加え、おびただしい数の砲弾を打ち込み、山の形が変わるほどだったといわれています。のちに「鉄の暴風」と表現された沖縄戦の戦場は、屍がそこかしこに転がり、重なって、戦友が倒れていてもどうすることもできず、銃声や爆発音、負傷者の泣き、叫び、うめく声が入り混じる地獄だったと証言されています。
▽歩兵第三十二連隊の最後
凄惨(せいさん)な戦いの最前線で、歩兵第三十二連隊も約9割が戦死しました。6月23日、牛島司令官の自決により、日本軍の組織的な戦闘は終了しますが、壮絶な戦いで通信が途絶え、最後の指令が「各部隊は現陣地付近を占領し最後の一兵に至るまで敵に出血を強要し忠節を全うすべし」だったため、その後も各地で戦闘が続きました。歩兵第三十二連隊も、沖縄戦の終結だけでなく終戦すら知らずに戦っていました。8月24日に終戦を知り、8月28日に無念の涙を流しながら軍旗を奉焼。歩兵第三十二連隊の歴史に幕を閉じました。軍旗を奉焼した地には現在、沖縄をはじめ海外諸地域で戦死した山形県出身者の慰霊碑「山形の塔」が建てられ、毎年慰霊祭が行われています。
▽命(ぬち)どぅ宝
たくさんの住民が巻き込まれた沖縄では「命どぅ宝(命こそが宝物。自分の命も他人の命も何ものにも代えられない大切なものだ)」という精神が大切に語り継がれています。
ー2025ー
▽山形市平和都市宣言事業 平和劇場「捨て石にされた兵士たち~山形歩兵第三十二連隊の最期~」
沖縄戦は何のためだったのか、山形歩兵第三十二連隊を題材とした朗読・劇を通して考えましょう
とき:7月26日(土)午後2時~、午後6時30分~
ところ:市民会館
問合せ:市民会館
【電話】642-3121
・1904(明治37)年の日露戦争で、敵を壊滅するも霞城連隊はその約半数を失った。生き残った将兵たちは、凱旋後にお金を出し合い、桜の苗木千本を購入し、霞城の内外に植えた。
・慰霊祭の時、「当時、壕やガマでは沖縄の一般市民が軍人の盾になるように言われたり、追い出されたりすることがほとんどだったけれど、山形の部隊は中に入れ、守ってくれた。今の私があるのは山形の兵隊のおかげ」と言われたことがあります。(沖縄在住山形県人会比嘉由紀子さん)
・不抜の塔…歩兵第三十二連隊本部が構築した陣地跡に建てられた慰霊碑。碑文には「首里の戦線より転進せる歩兵第三十二連隊の将兵は、昭和二十年六月二日此処大城の森付近に集結し、戦斗を続行するうち、六月十八日米軍の重囲に陥り、司令部との連絡途絶しその大半が死傷に至るも最後まで敢闘、米軍もこれを抜く能わず、我が軍の真価を発揮せり。」とある
参考:高島勇之助著「霞城連隊の最後」近藤侃一著「最後の連隊」
問合せ:広報課
【電話】内線229