- 発行日 :
- 自治体名 : 福島県三春町
- 広報紙名 : 広報みはる 令和7年2月号
2月の別名・如月は、いわれがよく分かっておらず、特に「如」という漢字との関係が不明です。そんな中でも寒い時期であるため、衣(きぬ)を更に着るので「着更衣」と呼んだという説が一般的です。また、草木の新たな生育が始まる頃なので「草木張月(くさきはりつき)」が変化したとも、「生更木」といった説もありますが、これらは3月の弥生にも通じる語源です。ほかに「令月(れいげつ)・麗月(れいげつ)」や、梅見月(うめみづき)・梅津月(うめづつき)といった呼び方もあるようです。
二十四節気では、3日が立春、18日が雨水(うすい)にあたり、もっとも寒い寒が終わって、雪や氷が解け、雨が降る春を迎える時期です。立春の前日が、季節を分ける節分です。元々は、立春・立夏・立秋・立冬の前日で、四季を分ける4日すべてを節分と呼んでいましたが、いつからか立春前だけを呼ぶようになりました。また、旧暦だと前年のうちに節分・立春を迎えることも少なくなく、一年の最初の季節が始まるこの日を年越しと考え、八十八夜や二百十日などの起点の日でもあります。
三春の節分行事として、江戸時代の三春藩家老・細川家での例を紹介します。細川家では、夕方の七ツ時(4時前)に、空焼きした田作り(鰯)を串に刺して、各所の戸口に柊の枝とあわせて挿しました。半時後(5時前)に焼物・汁・香物・ザクザク煮しめ・飯の祝膳を食べ、神仏に供え物をしました。その後、汁を煮た鍋で大豆1升を炒って、升に入れて台に載せ、暮六つ時(6時前)に袴を着けた若党が、当主に祝を口上して、神棚の前に立ちます。そして、「大神宮様にあげます」と豆2粒くらいを2度撒き上げ、「年神様、稲荷様、恵比須様(ほか10神略)、そのほか神々様にあげます」と唱えて撒き上げました。それより、座敷から豆を撒き始め、恵方に向かって「福は内」、明の方に向かって「鬼は外」、再び恵方へ「福は内」と唱えて撒き、各部屋を回って台所で終わりました。それから、若党が当主にお祝いを申し上げると、結わえた扇子2本と50文をいただきました。そして、自分の年より1つ多く豆を数えて、灰汁を混ぜて花紙に包んだもので全身をなでました。それに銭12文を添えて、大町四つ角に落として厄落としをした後、福茶をこしらえて祝ったということです。
これは、上級藩士の例ですが、今でも似たようなことをしている家も少なくないと思います。こうした春を祝う家庭行事の継承が望まれます。