文化 古河歴史見聞録

◆諸川新田の鈴木松蔵、富士登山(登拝)へ旅する
富士山は、古来より富士信仰の対象であり、多くの史跡や芸術作品創作の源泉となる景観を有します。そのことが評価され、世界文化遺産に登録されたのは、平成25年6月。そして約10年が過ぎた今、マナー違反、軽装登山など、さまざまな問題に直面しています。

◇富士山と不二孝(道)
ところで、私は先日の午前中に富士山を3つも登頂しました!
といっても古河公方(くぼう)公園の隣と、群馬県館林市に2カ所ある富士山。これらは「富士塚(ふじづか)」という、富士講(ふじこう)の人々が造ったミニチュア版富士山です。
富士講は江戸時代、江戸を中心に関東で流行した民衆信仰で、富士信仰の神である仙元大菩薩(せんげんだいぼさつ)を崇拝することで、家内繁栄、病苦退散と説きました。その一派である不二孝(ふじこう)(道(どう))は、鳩谷宿(はとがやじゅく)(現川口市)の小谷三志(こたにさんし)が創始し、それまでの富士講が加持祈祷(かじきとう)が中心であることに疑問を感じ、富士の神に報いるため親孝行・家業精励・質素倹約や人助けなど、日常的な倫理と道徳の実践を説き、多くの人々に受け入れられました。

◇松蔵の富士登山への旅
文政11(1828)年6月、不二孝の熱心な信者だった諸川新田(現東諸川)の鈴木松蔵(まつぞう)は、講仲間6人と富士登山(登拝)の旅に出ました。6月8日に出発し、同月21日に帰宅するまでの13泊14日にわたる旅の様子は、松蔵が記した「富士禅定道中附(ふじぜんじょうどうちゅうづけ)」から知ることができます。
9日、境町で集合した松蔵一行は、日光道中越谷宿(現越谷市)、日光御成(おなり)街道鳩ケ谷宿と現在の埼玉県を斜めに南下。この日は鳩ケ谷宿に宿泊します。
翌10日、下練馬村(現練馬区)から富士道(ふじみち)に入り田無(たなし)町(現西東京市)、甲州街道府中宿(現府中市)を通り、日野宿(現日野市)泊まり。11日、高尾山薬王院(やくおういん)に参詣後、小仏峠を越え、上野原宿(現山梨県上野原市)泊まり。12日、大月宿(現大月市)から富士道に入り、谷村町(現都留(つる)市)泊まり。そして13日に目的地の吉田(現富士吉田市)の御師(おし)(祈禱(きとう)・宿泊などの世話をする神職)宅に到着。富士山には14日に登り始め、八合目の小猿屋(こざるや)の室(むろ)に泊まり、翌15日、ついに山頂へ到達。それより下山し、同日中に吉田の御師宅に戻っています。

◇富士山の様子は
松蔵は日記で富士山の様子や気候について「はだか山・焼砂利(やきじゃり)」「六合目、霧深く、冷気は幸島(こうじま)にて八・九月の陽気」「六合五勺(しゃく)にて土手羅(どてら)を着」「七合目の頃は霧晴れて大西風」と記しています。
帰路は16日昼時に御師宅を出発、山中湖を見物し、竹之下(たけのした)(現静岡県小山町(おやまちょう))から矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)で足柄(あしがら)峠を越え、18日大山(現神奈川県秦野(はだの)市)、19日江ノ島・鎌倉(長谷寺・鶴岡八幡宮など)、20日江戸(芝増上寺(しばぞうじょうじ)・愛宕(あたご)神社)へ回り参詣。21日22時、諸川新田の自宅に戻りました。日記によれば、富士登山を除き、移動距離約102里(約408キロメートル)。
三和資料館では12月21日(日)まで、館蔵資料展「古文書でみる東諸川鈴木家~大戸(おおど)新田・成田新田、そして不二道信仰~」を開催中です。ぜひ、ご観覧ください。
三和資料館学芸員 白石謙次