くらし シリーズまち・ひと・しごと #73

■蛟もう神社例大祭(馬鹿待(ばかま)ち)
令和7年11月1日(土)21時斎行

馬鹿待ちと呼ばれ親しまれているこのお祭りは、蛟もう神社の最も重要なお祭りとして、古式にのっとり執り行われます。「蛟もうの神馬と鹿島の神鹿との交歓のある日」だったことから馬鹿待ちと呼ばれるようになりました。宮司によると、現代でいう婚活や、男女の出会いの場のような側面もあったそうです。
この蛟もう神社例大祭では、御衣替(みそか)えと湯立(ゆだて)神事、御衣焚(みそたき)神事が行われます。
今年は神事に先立ち、奥の宮で立木地区の青年団である若睦會(わかむつかい)による奉納太鼓が行われ、重く深い太鼓の音が、境内中に響き渡りました。
続いて、氏子による火起しが行われました。この火は湯立神事のための水を沸かし、御衣焚神事にも用いられます。
御衣替えでは、奥の宮社殿で祝詞(のりと)を奏上(そうじょう)し、衣替え後、火を松明にともし、裏参道を通って700メートル離れた門の宮へ向かいます。門の宮社殿でも祝詞を奏上し、御衣替え後、再び奥の宮へ戻っていきます。
湯立神事は、笠貫沼(かさぬきぬま)から運んだ水を入れた大釜で湯を沸かし、クマグサを浸して湯を撒く神事です。氏子や崇敬者の無病息災をご祈念して行います。
御衣焚神事では、古い神御衣(かんみそ)(神様の着物)を茅(かや)と眞菰(まこも)の大きな松明の中に納め、多くの参列者が見守るなか、境内中央にて焚き上げます。
御衣焚神事の火が消えると神事は終了し、直会(なおらい)で御神酒が配られ、宮司の挨拶をもって例大祭は幕を閉じます。
古くから守り、繫げてきたこの例大祭は、神様へ感謝し、人々の絆を深める大切な行事です。

▽2300年の歴史
蛟もう神社は、今から約2300年前の孝霊(こうれい)天皇3年(紀元前288年)に、水の神様である罔象女大神(みつはのめのおおかみ)を現在の門の宮の場所に祀ったのがその始まりで、文間大明神(もんまだいみょうじん)ともいわれています。
文武(もんむ)天皇2年(698年)には、土の神様の埴山姫大神(はにやまひめのおおかみ)を合祀(ごうし)し、現在の奥の宮に遷座(せんざ)しました。
蛟もうの名は、周囲が流れ海であったころの大地の姿が、水を分けて進む水蛇(みずち)に似ていたことに由来するといわれています。
蛟もう神社が記録に現れた最初は、延喜(えんぎ)5年(905年)に編集を開始し、延長5年(927年)に完成した「延喜式(全50巻)」です。その中の第9巻と第10巻の「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に記されている神社は延喜式内社と呼ばれ、全国で2861社のお社(やしろ)があり、蛟もう神社は「下総國相馬郡一座小社蛟●神社(しもうさのくにそうまこおりいちざしょうしゃみつちじんじゃ)」と記されており、水の神様を祀(まつ)る神社としては、関東最古といわれています。

▽蛟もう神社の逸話
「立木」「文間」の名前の由来
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征(とうせい)のために蛟もう神社で祈願した言い伝えがあります。その時に文馬(かざりうま=綺麗に装飾した馬)を木に繋いだということから蛟もう神社のある地区を「立木」(たづなをきにつなぐ→たづなき→たつぎ)、神社のある地域を「文間」(文馬→文間)と呼ぶようになりました。

■蛟もう神社
住所:
・奥の宮立木882
・門の宮立木2184
駐車場:どちらも有り
【電話】0297-68-7278

※「蛟もう」の「もう」「●」は環境依存文字のため置き換えています。正式表記は本紙またはPDF版をご覧ください。