- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県真岡市
- 広報紙名 : 広報もおか 令和7年6月号No.841
橋本勲(はしもといさお)さん
(八木岡在住・88歳)
◆歌い続けて次のステージへ
私は昭和12年、北海道の函館に生まれました。小学1年生のころ、警察官だった父が中国・山東省へ赴任することになり、家族で中国へ渡り、3年間中国で過ごしました。昭和20年に終戦してもすぐには帰れず、翌年になってようやく帰ることができました。当時住んでいた場所から港まで歩いて移動したのですが、道中で暴徒化した人々に襲われ、足をつかまれたことを今でも覚えています。母が必死に守ってくれたおかげで、命からがら日本へ帰って来ることができました。
その後小学4年生から高校を卒業するまで、北海道で平穏に生活しました。高校の修学旅行で大阪へ行った際、活気あふれる街に惹かれ大阪の大学へ入学しました。大学を出た後は化粧品会社やホテル業に就き、転勤のため北海道から九州まで、あちこちを回りました。しかし、家族との時間が取れないことに悩み、(株)日産の追浜(おっぱま)工場へ転職しました。その後、新工場が建設された上三川へ移ったのが32歳の頃です。それから3年後、上下水道が整備された真岡に魅力を感じて、八木岡に家を建てました。
工場での勤務は楽しく、定年まで28年間勤めました。仕事で出会ったさまざまな人たちは、考え方もそれぞれに違い、共に働きながら話をするのは本当に面白かったです。仕事では、規則的な作業の中で効率的な方法を模索することが興味深く、夢中になりました。その工夫が評価され、工場長から表彰を受けたことは今でもいい思い出です。
定年後は、市民合唱団やウクレレのチームに所属し活動をしてきました。他にもイチゴ農家でアルバイトをしたり、温泉へ行ったり運動をしたりと、充実した日々でした。ところが、昨年の市制施行70周年記念事業の「第九」の練習終わりに転倒し、骨折してしまいました。合唱団の仲間たちのおかげで何とか助かりましたが、入院したことで病気もみつかり、入退院を繰り返したため、結局「第九」のステージには立てずとても残念でした。しかし、命が助かっただけでも幸福なことだと思います。今は、5月にある市民合唱団45周年のステージを目指して練習をしています。これからは、骨折後できずにいたフィットネスを再開し、高校生の孫たちが20歳になるまで健康を保つことが目標です。