文化 「明治のナイチンゲール」大関和(おおぜきちか)をたどる

■第1回 大関和とは-時代背景と人物紹介-
本市出身の大関和(おおぜきちか)をモチーフにしたNHK連続テレビ小説「風、薫る」が、令和8年(2026)春から放送予定となっています。それに先駆け本紙では、和の人物像や事績、ゆかりの地などを、隔月で全6回に分けて紹介していきます。
後にわが国看護界の先駆者となる大関和(1858-1932)は、安政5年(1858)4月11日、黒羽藩の重臣で石高(こくだか)200石の大関弾右衛門増虎(だんえもんますとら)・テツ夫妻の次女として、黒羽田町に生まれました。当時の黒羽藩では、文久元年(1861)に15代藩主に就任した大関増裕(ますひろ)の指導により、軍制改革を中核とした藩政改革が推進されていました。そうした中で父増虎は、元治元年(1864)2月7日、家老に就任しています。増虎は、硫黄の採掘の陣頭指揮にあたるなど、鉱山業務を中心として活躍しましたが、慶応3年(1867)12月9日の増裕の急死後、同4年8月に辞職しました。それでも増虎は、明治2年(1869)3月の黒羽藩の藩制改革によって家知事(いえちじ)となり、同3年7月には白川県大属(だいぞく)に任命されて、当地の勧業に寄与するところとなりました。
明治9年5月27日、増虎は50歳で死去しますが、この年、和は渡辺豊綱(わたなべとよつな)(1838-1925)と結婚しています。渡辺家は石高200石の家柄で、豊綱は物頭(ものがしら)・砲術教示方という役職にあり、後には陸軍少尉となっています。和は明治10年に長男六郎を、同13年に長女シンを産んでいますが、豊綱とは離婚となりました。
和は明治14年に上京、同20年1月、桜井女学校附属看護婦養成所に入学し、その第一期生の一人となりました。翌年10月に看護婦養成所を卒業した和は、帝国大学医科大学附属第一医院(現東京大学医学部附属病院)の外科の看病婦取締となったことを皮切りに、新潟県の高田女学校に舎監として赴任したり、東京看護婦会講習所講師となったりしています。その後も、自身の著書『派出看護婦心得』や『実地看護法』が刊行となり、明治34年には東京看護婦会会頭に就任しています。さらに、明治42年11月には大関看護婦会を設立し、大関看護婦講習所を開所して、後進の育成と派出業務を通した実践活動に専念しており、同44年には大日本看護婦協会東京組合長に就任となり、現在では「明治のナイチンゲール」と呼ばれています。

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