- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県下野市
- 広報紙名 : 広報しもつけ 令和7年12月号
■第9回「東の飛鳥」青龍の由来(4)
しもつけ風土記(ふどき)の丘(おか)資料館
◇持統天皇の即位
壬申(じんしん)の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのみこ)は即位し天武(てんむ)天皇となりました。この内乱を教訓に、679年に天武天皇と皇后鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は6人の皇子たちに、互いに争わず共に協力する内容の「吉野の盟約」といわれる誓いを立てさせます。また、天武天皇は天武9(680)年に病になった皇后の病気平癒(へいゆ)のため、飛鳥の地に薬師寺(本薬師寺…奈良県橿原市)を建立します。この時、下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)も皇后の病気平癒を願って下野の地に下野薬師寺を建立したと、およそ900年後の天正2(1574)年の安土桃山時代に編さんされた『薬師寺縁起』に記されています。
685年頃から、病気がちの天武天皇を補佐するように皇后が政務に携わるようになり、686年7月、天皇は皇后と草壁皇子(くさかべのみこ)が共同で政務を担うよう勅(みことのり)を発しています。天武天皇の崩御後、皇后は草壁皇子の皇位継承のライバルとなった大津皇子(おおつのみこ)を謀反の疑いで排除します。埋葬までの2年間、度々行われた天武天皇の葬送の儀式では草壁皇子が官人を率いることで、皇位継承者として印象付けました。しかし、その草壁皇子が689年4月に病気のため突然薨去(こうきょ)したため、皇位継承の計画は大きく変更することとなってしまいます。
10代前半で嫁いで、白村江(はくすきのえ)の敗戦や壬申の乱などの修羅場を経験し、夫の天皇亡き後皇后として政務に関わり、息子のライバルを葬りさった鸕野讃良皇女でも、天皇即位を目の前にした息子の突然の薨去を深く悲しみました。草壁皇子の子(皇后からすると孫にあたる)である軽皇子(かるのみこ)(後の文武天皇)は当時7歳で、皇太子に立てるには幼すぎたことから、皇后が自ら第41代持統(じとう)天皇として即位します。
◇持統天皇の治世
持統天皇は天武天皇の政策を引き継ぎ、天武帝と草壁皇子の喪に服しつつ、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の制定と藤原京の造営を進めます。施策として持統元(687)年正月には、都に住む老人・病人・貧民に施しを行い、罪人の赦免(しゃめん)、負債の利子の免除や全国の調(税)の半減の命令を出し、民衆のための政策をとることで、政権の安定を図りました。
在位期間の690年から697年の7年間に、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)ら宮廷詩人に天武天皇と持統天皇の政策を「大君は神にしませば」と歌わせ、次の文武天皇の地位の安定を図るため、天皇の神格化や権力の強化を図りました。
詳細に彼女の人生を追わなければ、小倉百人一首の持統天皇2番歌「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」の歌のように、爽やかな女性のイメージですが、実際の人生はそれとはほど遠い「夫や子供のために強い心を持った女性」だったと考えられます。
持統4(690)年7月、飛鳥浄御原令により官僚機構が構築され、18年ぶりに太政官(だじょうかん)に大臣が置かれました。太政大臣に高市皇子(たけちのみこ)が、右大臣に丹比嶋真人(たじひのしままひと)が就任します。この就任により、高市皇子(父親が天武天皇、兄弟は草壁皇子、大津皇子(おおつのみこ)、舎人親王(とねりしんのう)、新田部親王(にいたべしんのう)で長屋王(ながやおう)の父親)が持統天皇を補佐し、朝廷政治をとりまとめる事となります。
高市皇子は壬申の乱の美濃国不破(ふわ)の戦いにおいて功績が著しく、政務においても信頼がありましたが、持統10(696)年に薨去します。持統天皇期に政局の中心を担った人材の中に高市皇子のような壬申の乱功績者は他にいないため、新たに藤原不比等(ふじわらのふひと)など唐や韓半島諸国の先進的な政治や文化に詳しい若い人物を登用しました。持統上皇は彼らに大宝律令編さんなどの新しい天皇にとって重要な政務を担当させました。この若い人材の中に下毛野朝臣古麻呂がいたのです。
次回へつづく
