- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県那須町
- 広報紙名 : 広報那須 令和7年8月号
■那須町の地域文化遺産 vol.4
今回は、大谷開拓と「拓魂」碑について紹介します。
大谷開拓はその多くが山形県大谷村(現朝日町)の出身者からなります。昭和14年、大谷村の青年らは白田岩夫団長に率いられ満洲国阿城(現中国・ハルビン市)に分村移民という形で入植しました。分村移民とは、県の募集や町村単独により送出した開拓団のことをいいます。
満州に入植後も多くの苦難を伴いました。昭和16年、開拓地が関東軍実弾射撃場として接収され、強制移転を余儀なくされると、翌年からは団員の応召や開拓団の運営の厳しさなどが重なりました。また終戦後も、はしか・チフスの流行により1000名以上が亡くなったといいます。昭和21年9月に内地へ帰還することができましたが、多くの犠牲を払ってのことでした。
満州より大谷村に帰還した人々は新たに入植地を探し、昭和21年12月、那須村の軍馬補充部白河支部の放牧地として利用されていた御料林に先遣隊が入植しました。これには地元の薄井信吉氏などの助力がありました。しかし、開拓を進める中で食糧事情は厳しく、アザミ、ゼンマイ、アケビの新芽や果実の皮などで粉を作り空腹を満たしました。このような事情から山形県大谷村から慰問品などが届いたといいます。
昭和24年、農林省よりようやく開拓組合として104戸の入植が認められましたが、昭和28年・29年の冷害で打撃を受けました。これにより耕作から酪農への転換と酪農経営の推進を図るため、昭和34年に46戸の移転、150ヘクタールの新規開墾、農道の新設がきまり、昭和36年に事業は完成しました。その成果もあり、昭和49年には乳牛が1500頭を超え、那須町有数の酪農地域となりました。
現在白山神社境内には、「拓魂」碑があります。そこには「国破れて裸一貫祖国に還る。同志互い援く幾星霜。悠然不動那須の嶺。白山を遷して築く大谷の郷」と「那須大谷賛歌」が刻まれ開拓の歴史を伝えています。
(※先月号掲載36行目の山梨子地区(広義)は大同、大日向などを含む政府が設定した国営開墾山梨子地区のことである。)
問合せ:那須歴史探訪館
【電話】74-7007