- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県行田市
- 広報紙名 : 市報ぎょうだ 令和7年6月号No.948
■資料がかたる行田の歴史75
▽忍藩弓術師範・海野景充(うんのかげみつ)と阿部正能(まさよし)の絆
海野景充は信州真田庄(さなだのしょう)を拠点にした真田一族として勢力をもった幸隆(ゆきたか)の弟・海野能登守(のとのかみ)幸景(ゆきかげ)を祖先に持つと伝わる日置流(へきりゅう)雪荷派(せっかは)弓術の使い手です。景充は江戸時代前半に当たる正保2(1645)年に忍藩主の阿部忠秋に召し抱えられ、阿部家家臣団の弓術師範を務めました。
後に忠秋から家督を相続する正能は、青年期より景充から弓術の教えを受けています。ちょうどその頃に正能が景充に宛てた直筆の書状から両者の絆を紐解いてみましょう。
とある年のうるう4月23日に正能が景充に宛てた書状を見ると「ようやく実施された堂前(どうまえ)(通し矢)の矢数はいかがであったか。首尾が気になって昼夜ともこのことばかりを考えている。後日、その首尾を聞かせてほしい」と書かれています。通し矢(堂射(どうしゃ)・堂前)は、京都の蓮華王院(三十三間堂)の本堂西側の軒下(長さ約121メートル)を南から北に矢を射通す弓術の競技のことです。
景充は、正保2年に江戸浅草の三十三間堂、そして明暦2(1656)年うるう4月17日に京都の三十三間堂において、それぞれ通し矢に参加しています。諸条件を踏まえると、先の書状は、明暦2年に景充が参加した通し矢の直後に正能が出した書状と推定されます。
この書状で正能は、通し矢をやり遂げた景充に対し、気になって仕方がないので当日の矢数(成績)を尋ねています。年齢も比較的に近い両者が、次期藩主と藩士、そして弓術における弟子と師匠という強い絆で結ばれていたことが、直筆の書状からも伝わってきます。
(郷土博物館 澤村怜薫)