文化 青淵遺薫(せいえんいくん) 栄一のちょっと小話(こばなし)

■栄一の母『えい』の慈愛の深さ
「あんたがうれしいだけじゃなくて、みんながうれしいのが一番なんだで」と、渋沢栄一が主人公の大河ドラマ『青天を衝け』の中で、母えいは幼少期の栄一に諭すように語りかけます。
えいは『中の家(なかんち)』で生まれ、幼い頃からよく両親を手伝い、働きました。物を大切にし、自分では粗末な物を使い、人には良いものを用意しました。
人に物を施すことが好きで、貧困や病気を患い困っている人を見ると、涙を流して寄り添い、敬遠せずに着物や食事の世話をしたといいます。その慈愛の深さには、時に、夫の市郎右衛門(いちろうえもん)があきれるほどでした。
後に栄一が、実業界で活躍するのと同時に多くの福祉事業にも尽力したのは、慈愛の深い母の影響が大きかったといえます。
特に、身寄りがないこどもや困窮した人たちを保護していた当時の東京市養育院(よういくいん)で、栄一は明治12(1879)年から亡くなるまでの約50年にわたり、院長を務めました。困った人を見ると放っておくことができない母の心が、栄一に根付いていたのではないでしょうか。
えいは、晩年には東京の栄一の邸宅へ行き来し余生を楽しんでいましたが、明治7(1874)年に栄一の傍らで息を引き取りました。いつも周りの人たちに気を配っていたえいにとって、長い間離れて暮らしていた栄一と一緒に過ごした束の間は、この上なく大切な時間となったことでしょう。