文化 お茶の間博物館422

■シリーズ 東京湾要塞と館山
(1)東京湾要塞と観光
今年度は、太平洋戦争終戦80年の節目の年として『東京湾要塞(とうきょうわんようさい)と館山』をテーマとして、関連する資料を紹介します。
首都・東京の入口となる東京湾周辺の防衛を目的に、房総半島と三浦半島には32の砲台と海ほう(砲台を設置した人口の島)が設置されました。これらの施設を総称して「東京湾要塞」と呼びます。東京湾の要塞化は明治時代に始まり、館山は大正15(1926)年に東京湾要塞地帯に組み込まれました。
その後、館山には数多くの軍事施設が建設されていきます。昭和2(1927)年には洲崎第2砲台(坂田)、昭和7(1932)年には大房岬砲台(南房総市富浦町)と洲崎第1砲台(加賀名)が建設されました。
当時、要塞地帯内では土地の持ち主でさえ立ち入りが禁止される場所がありました。また、昭和初期の絵はがきや観光マップの発行には「東京湾要塞司令部」の許可が必要でした。場所を特定されないためか、本来あるはずの山が消された写真が使われている絵はがきも発行されました。
房州の観光地を紹介する昭和14(1939)年発行の「房総観光御案内」(画像)にも「昭和十四年東京湾要塞司令部地乙第六四号許可済」と記されています。観光マップに描かれた房総半島の一部(富津岬から野島崎まで)は「要塞地帯内」として赤く囲われ、枠外には「護れ要塞 防げよスパイ」のスローガン、注意事項には「要塞地帯内ハ許可ナク測量、撮影、模写、録取等ハ出来マセン、犯シタルモノハ法律ニヨリ処罰セラレマス」と書かれています。東京湾要塞地帯内は、機密保持のため撮影や模写などの記録が禁じられ、その地域内の写真・図面を掲載した絵はがきや観光マップは東京湾要塞司令部の許可が必要だったのです。なお、2年前(昭和12年)に発行された「房総観光御案内」には要塞地帯内の囲み、注意事項、スローガンは書かれておらず、規制が強化されていった様子がうかがえます。
大正12(1923)年の関東大震災で甚大な被害を受けた房州は、観光に力を入れて復興を果たしていきますが、東京湾の防衛力強化のため、しだいに観光に制限がかけられていきました。
※詳しくは本紙をご覧ください

■博物館の休館日
本館・館山城:6/2、9、16、23、30 各月曜日
渚の博物館:6/30(月)