文化 ふるさと探訪 タイムスリップ・インザイ【No.33】

■田沼意次と印旛沼開発
現在テレビでは、江戸時代のメディア王、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の生涯を描いた大河ドラマ「べらぼう」が放映されています。劇中では老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)の幕府内権力争いが展開されていますが、実は田沼が印旛沼の開発事業を推進したことはご存じでしょうか。
江戸時代前期に利根川の流路が江戸湾(東京湾)から太平洋に変更されると、利根川で増水が起きた際に川と印旛沼を結ぶ長門川に水が逆流し、沼周辺の村々に甚大な被害を及ぼしました。この水害の解決策のほか、新田の開発、太平洋から江戸湾を結ぶ水運利用として印旛沼の水を江戸湾に落とす掘割工事が江戸時代に3回行われましたが、いずれも失敗しています。田沼の印旛沼開発は、その工事の2回目に当たります。安永9(1780)年、幕府領だった惣深新田(現草深地区)の名主・平左衛門と島田村(現八千代市)の名主・治郎兵衛が、印旛沼開発の計画書を幕府代官・宮村高豊の手代に提出しました。2人が計画した内容は、沼の西端にあたる平戸村(現八千代市)から検見川村(現千葉市)までの9000間の掘割開削と長門川を締め切るものでした。この工事は、3,400町歩もの新田が開発される見込みとして、天明2(1782)年に着工されましたが、翌天明3(1783)年の浅間山の噴火や天明6(1786)年の利根川の大洪水により、各村が壊滅的な被害を受けたことから、田沼は失脚し、工事も中止となりました。
木下交流の杜歴史資料センターでは、田沼時代の印旛沼掘割工事の際に出た埋木から作られたと伝えられる碁盤を展示しており、当時の様子を今に伝える貴重な資料となっています。